向地 憲志
確か46歳の春だったと思う。仕事を失いわずかに残っていた視力も失い、鬱々とした日々を送っていた私はある日、 30年来の友人から「よかったら一緒にジョギングでもしないか?」との思いがけない誘いを受けた。正直言ってあまり乗り気ではなかったが、気遣ってくれる友人の気持ちがとてもうれしくて、とりあえず週に2度友人の伴走で自宅近くを走ることにした。
最初は渋々はじめたジョギングなのに、走り終わった後のなんとも言えない爽快感に取り付かれた私は、あっという間にマラソンの世界にのめり込んでしまったようだ。
少しずつ走力がついてくると当然のようにレースにも出たくなった友人と私は、ジョギング3ヶ月で10キロの大会に参加した。記録は46分位だったと思う。
思っていたより早く走ることができた私たちはとてもうれしく、「近いうちに必ず一緒にフルマラソンを走ろう!!」と固い約束をした。
ところがその1ヶ月後私の友人は思いも寄らぬ交通事故で両足複雑骨折という重症を負ってしまった。
せっかく元気になりかけてきたのに、また以前のような鬱々とした生活に戻ってしまうところの私だったが、「しばらくは一緒に走れないけど、友達に頼んでおいたから、月に1・2回は練習を続けて欲しい」との温かい友人の配慮。みんなからは「クールな奴」と言われている?私なのに、そのときばかりは感極まって思わず涙ぐんでしまった。
友人との約束を守り、その後もジョギングを続けた私は半年後にはハーフ、 7ヶ月後にはフルマラソンを走った。でも残念ながら私の伴走はあの友人ではなかった。そして、もっと残念なことに、あの友人は二度と私と一緒に走ることはできなくなってしまった。
「友人の分まで頑張らないと!!」と決心した私はその後たくさんの温かいランニング仲間にも恵まれ、10キロを40分を切り、フルマラソンも3時間1桁で走ることができるようにまでになった。
そしてお蔭様でそんな温かいランニング仲間に支えていただきながら、 1998年4月の第1回盲人マラソン世界選手権大会出場、ホノルルマラソン招待、福知山マラソンでの全盲の部優勝、さくら道ウルトラマラソン(名古屋から金沢までの270KM)や立山登山マラニック(海抜ゼロメートルから3003メートル雄山頂上までの65kmを駆け上がる)に挑戦・・・etcと、忘れられない素晴らしい思い出をたくさん作ることができた。ちなみに、手前味噌になってしまうが、さくら道ウルトラマラソンも、立山登山マラニックも、時間内完走はブラインドランナーでは私が日本初だそうだ。
マラソンをはじめるようになってから私は少しずつではあるが明るくなってきたようだ。正直言って今もまだ失明のショックからは立ち直れていないし、まだまだ惰性で生きているだけの私であるが、「でも、今は好きなことをさせてもらって結構幸せかも知れない」と思える。「傍からみていると結構頑張って生きているように見えるよ」とも言われる私、でも、なさけない話、「まだまだ過去を引きずり、自分の障害を受け入れることができていない」というのが偽らざる現状である。
マラソンをしていて一番良かったのは、たくさんの温かいランニング仲間にめぐり合えたことである。今後はあまり記録を追い求めず自分を支えてくれている温かいランニング仲間と一緒に楽しい思い出をたくさん作って行きたいと私は願っている。
思えばこんな素晴らしいマラソンの世界へのきっかけを作ってくれたのは、正にジョギングに誘ってくれたあの友人。あのときに約束した「近いうちに必ず一緒にフルマラソンを走ろう!!」と言ったあの友人の言葉は今もまだハッキリと私の耳に残っている。もしそんな友人との約束が実現できるとしたら、どんなに嬉しいことだろうか。
「42.195キロは休まない限りゆっくり歩いても10時間もあれば何とかゴールできるはず」、「残念ながら日本の大会は制限時間が厳しいので無理だけど、人に対する優しさもある外国の大会なら十分実現可能なはず」、「近い将来ホノルルマラソンかニューヨークシティーマラソンにでも参加して、ぜひぜひ友人との約束を実現させたい」と、ず〜っと心に秘めていた私なのに、残念なことにあの友人は2004年9月15日、私との約束を破って、自らの意思で一人帰らぬ世界へ旅立ってしまった
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