第33回 視覚障がい者京都マラソン大会

2016年2月7日(日曜)に第33回視覚障がい者京都マラソン大会が京都市西京極運動公園及び周辺道路を使用して、行われました。

この大会は、33年前、「視覚障がい者も一般道路を走りたいとの思い」から始まったと聞きました。
30年以上前となると一般の大会自体も今のように数も多くなかったと思います。
まして視覚障がい者が伴走者とともに参加できる大会は、まったくなかったのではないでしょうか?
現在では、伴走者とともに多くの大会へ参加できるようになりました。
そんな視覚障がい者の走る環境が大きく変わったり、大会側の運営面も代わっていくなど大きな変動の中、今年の開催で最後となりました。

今年の大会は小雪も降る中、晴れたり曇ったりと天気もコロコロ変わって、今までの大会もきっといろんな天候だったんだろ~なって、思いをはせます。
第1回から参加されてる方がお二人いてはりました。
種目が1キロ、3キロ、10キロとあるので、体力に応じて参加することができたのではと思いますが、それでもこの寒い時期にある大会で、33回ずっと継続して参加されたのはすごいな~と思います。

この大会は、ボーイスカウトの子どもたちがたくさん応援してくれて、また近隣の皆さんも応援に駆け付けていただいてると聞きました。
今年は参加者含め、スタッフに応援、ボランティア総勢900名の皆さんが携わってくれてはったようです。
最初からこれだけの人数が携わってくれてはったのではないと思うので、33年間継続してくれてはったたまものだと思います。

わーわーずでは、年間行事の一つとして、この大会に参加してきました。
なので、それぞれに思い出のある大会です。
そんなメンバーの思い出をここに残したいと思います。

説明:説明:10キロをトップでゴールしたセッキーさん説明:31回大会開会式で一言を述べるわだっち

●視覚障がい者京都マラソンの思い出
こんにちは。るみちゃん(福原)@ブラインドです。
 
京都マラソンが終わってしまったことは、とても残念です。
わーわーずの行事の一つでしたからです。
 
私は、1989年の第6回大会に初めて参加しました。
1988年にライトハウスに入り、そこで、そのマラソン大会のことを聞き、ランニングもしていたので、参加することにしたのです。
その当時は、5km、3km、1kmの3種目でした。
会場は、京都府立大学のグラウンドでした。
会場に行ってみると、それぞれの種目の人数が少ないことに驚きました。
100人はいなかったように思います。
視覚障がい者がマラソンをすることが、まだそんなに知られていなかったんですね。
ちなみに、5kmの女子全盲の部は4人でした。
もう一人の訓練生とあと二人でした。
さて、伴走者さんは、市の消防局の男性の方で、初めて伴走するということで、とても緊張されていました。
でも、走り出したら、初めてとは思えないぐらいに、的確な伴走をしていただき、優勝してしまいました。
タイムは、27分32秒。
練習タイムより、5分以上の好タイムでした。
伴走者さんは、初めて伴走して、優勝してしまったので、大喜びでした。
実は、優勝したことを知らなくて、係員さんに、
「優勝しましたので、表彰式に出てくださいね」
って言われて、自分でもびっくりして腰を抜かしてしまいましたよ。
「え?優勝したんですか?」
初めての5kmで、しかも優勝してしまったので、涙を流しながら、伴走者さんと抱き合い喜んだことを今でも忘れません。
それ以来、第8回を除き、20回まで、毎年参加していました。
その後は、体調が思わしくなかったので、24回と25回に参加させていただきました。
府立大学のグラウンドの時には、前日に雨が降ったら、水たまりはできるし、コースも西京極の道路と違い、砂利道がコースになっていたので走りにくかったです。
雪が降ったときもあったかな?
風の強い時もあったかな?
雨の中を、走ったこともあり、どろだらけになりながらゴールをしたこともありました。私が優勝したときのトロフィーはね、持ち回りで1年間だけ貸出して持って帰ったんです。
そして、1年後、つまり、1990年の大会の日までに、事務局に送っていたんです。
その代わりに、レプリカをもらいました。
何回目からには、トロフィーをそのままもらえるようになりましたね。
グラウンドのときには、中といえばテントしかなかったので、寒いのなんのって。
終わった後のうどんが暖かくておいしかったです。
その間にも、優勝はできませんでしたが、入賞は何度もさせていただきました。
何回目からか忘れましたが、現在までの、10km、3km、1kmに変更され、京都府立大学のグラウンドから、西京極陸上競技場になったんです。
20回大会までに変わったので、全部の距離を走りました。
西京極に変わってからは、寒さも雨も、屋根のあるところで助かりました。
府立大学のグラウンドにしても、西京極に変わっても、応援の人は、沢山でした。
いろんな方に伴走してもらうことができて、本当にありがとうございました。
この、京都マラソンがきっかけになり、フルマラソンを走りたいと思うようになりました。
この京都マラソンに出会ってなかったら、フルマラソンを目指そうと思ってなかったでしょう。
そして、視覚障がいを持っていても、走ることができるのだと、知ることがなかったでしょう。
そう思うと、この大会は、私のマラソン人生の1歩を踏み出させていただきました。
本当に、最後に走れなくて残念でした。
大会を支えてくださった方がおられましたら、お礼を申しあげます。
そして、お疲れさまと言いたい気持ちでいっぱいです。
「ありがとう京都マラソン大会」
「マラソンの楽しさを知ることができて、本当にありがとうございました」
って、感謝でいっぱいです。

説明:31回大会の開会式の様子

●第33回 視覚障がい者 京都マラソン大会の思い出
ガイドの神藤ヨッシー
 
僕にとっては大袈裟ですけど人生の中でもすごく印象に残った1日だったので投稿します。
 
僕は50歳でマラソンを始めて現在マラソン4シーズン目に入ります。わーわーずに参加させていただいて2年ぐらい。
そんなに回数は多く行けてませんけど、長居の練習会やマラニックなどで凄く楽しいマラソンと出会う事が出来ました。
 
今回の第33回視覚障がい者京都マラソン大会が大会での初伴走でした。
 
去年の10月ぐらいでしたか、ブラインドランナーの西條さんからの突然の伴走の依頼。
初めはビックリしましたが、大会での伴走未経験の僕にこんな依頼をしていただいたことに感謝する気持ちが強く、そのお気持ちにお応えしたく即承諾のお返事をさせていただきました。
 
10キロという事で走る方は西條さんの希望のタイムだと自信があるのですが、いかんせん大会初伴走。多少の不安もありました。
 
転倒してしまったらどうしよう。途中で僕がトイレに行きたくなったらどうしよう。
 
でも、わーわーずのメンバーはみんな大会で楽しそうに走ってる事を想うとワクワク感の方が大きかったです。
 
そしてついに大会当日。
いざスタートすると、コースにカーブが多かったり、小さい段差があったりで、不安要素なんか考えてる余裕もなくコース状況とタイムを伝える事で必死でした。
 
西條さんの目標は1時間を切ることだったので、僕も同じ気持ちになりました。
西條さんは、腕を大きく強く振るタイプのランナーさんなので、出来るだけそれに合わせようとしたのですが、果たして出来たかどうか?
 
僕より9歳年上のベテランランナーの西條さんの息遣いがやっぱりいつもの練習の時とは違うように聞こえました。
 
この西條さんの頑張りで、こっちまで熱くなってきたのを覚えています。
 
結局、目標タイムにはわずかに及びませんでしたが無事にゴール出来て本当に嬉しかったです。
 
そしてサンビームでの打ち上げの時に、この大会が今回で終わってしまうという事で、ブラインドランナーさん達のこの大会への想いを聞いた時に、本当に残念だなという気持ちと、最後にこの大会に参加できて良かったって気持ちが僕にはありました。
 
ブラインドランナーさん達にとって、この大会の存在がどれほど重要な事だったのか、お話しを聞いていてよくわかりました。
 
後日、西條さんにお礼を言っていただき、僕の伴走に及第点もいただき、本当に自信になりました。
 
そして、打ち上げの時も言ったのですが、いつかまたハーフやフルの大会でも伴走してみたいと思うようにもなりました。
 
わーわーずに参加させていただいた当初は、大会で伴走なんか僕にはとんでもない話だとは思っていましたが、こんな前向きな気持ちにさせていただいたのも、わーわーずの存在のおかげだなと感じています。
 
またいつか違う形でこの様な視覚障害者の大会が行われる事を願います。
 
ありがとうございました。

説明:トラックを周回中のジョーさんペア

●視覚障がい者京都マラソンの思い出
サケもっと@ブラインド
 
私は、1994年3月、この大会に初めて参加しました。
京都ライトハウスで生活訓練を受けていて、その時の訓練生数名と先生と何度か練習して参加しました。
記憶に残ってることは、伴走ロープも知りませんでしたので、タオルの両端を持って走っていました。
力がつい抜けたり、急に引っ張られると滑ってタオルを離してしまうので、タオルの両端を玉結びのようにして、滑らないようにしました。
長さも適当にしていたと思います。
今のロープの方がめっちゃ走りやすいです~。
その頃は、わーわーずもまだ結成されていませんでしたし、走り続けてゆくとは思ってもいませんでした。
 
それからわーわーずと出会って、2002年くらいからはずっと参加しています。
いつもの練習コースの長居公園の平坦なところと違って、西京極の運動公園はアップダウンがいっぱいあって、そこを周回するので、何度も坂道がやってきます。
10キロでこれだけあるときついな~と思いながら参加してました。
でも、そのきつい坂道や周回コースの沿道で多くの応援があるのです。
伴走者の声も聞こえないくらいのおっきな声で、名前を呼んで応援してくれるのです。
そんな応援に元気をもらって、ゴールするとほんと充実感いっぱいでした。
そして、この大会は、タイムに応じた伴走者とペアリングしてもらえるので、ブラインドが単独で申込みができる大会でもありました。
 
私は京都ライトハウスでお世話になっていましたので、年に1度懐かしい声に出会えることもうれしかったです。
わーわーずからの大会参加者も増えてゆくと大会終了後の打ち上げもどんどん多くなっていって、めちゃ賑やかで、やかましいくらいのわーわーずらしい楽しい打ち上げでした。
 
そんな年に1度の楽しい大会や行事がもう終ってしまって、来年はないんだなと思うと寂しいですが、来年以降どんな形で行われてゆくのか楽しみにしています。

説明:トラックを周回中のサケもっとさんペア

●視覚障がい者京都マラソンの思い出
針小路@ブラインド
 
この大会が私のマラソンライフの歴史でもあります。
今となっては、大変珍しい大会で視覚障害者しか出場出来ない大会でした。
私は、平成元年に手帳を、取得したので第1回からは、出場資格が有りませんでした。(わらい)
 
1990年3月にマラソン大会と名の付くものに一番最初に走ったのがこの大会で3kmでした。
なのに今では、この記録がPBなのです。(わらい)
 
明くる年からは、一番長い5kmのエントリーでいつの大会かは忘れましたが、息子が中学生の時に伴走者として一緒に走りました。
その時に特別賞で親子なんとか?賞を、いただいたのがこの大会での最初の終わりメダル獲得です。
その息子も今や二人の子持ちのお父さんです。
この自分は5キロを、20分切り目指しておりましたが5キロが無くなり切れずじまいで終わってしまいました。
種目が5kmが10kmに変更になりそのうちに会場も全国駅伝のメッカ西京極に移りました。
 
20回大会を、もって運営から資金まで支えて頂いていたライオンズクラブが、退かれ継続が危ぶまれていた時に視覚障害のある社長の会社からスポンサーの申し出があり継続できましたがこのようにまたどこかが申し出てくれるかな?
 
この大会のお陰で走る習慣も付いて遷都1200年を、記念して京都シティハーフマラソンも10回以上連続完走しておりました。
 
その当時は3月の第1週にこの大会があり第2週が京都シティハーフで1時間ほどアップし50分そこそこならばキロ5分ペースと占っておりました。
 
それが最終では関門も気になるタイムまで落ちました。(わらい)
 
最初は、わーわーずの参加者も少なかったのですが練習会のミーティングで宣伝すればボチボチ増えて大会の参加者全員の1割以上2割近くがわーわーずになっていたときもありましたね。
 
終わってからの打ち上げも回るお寿司屋さんとか駅前のお好みやさん、ランナー御用達の王将等々転々としていて神奈川から大勢来られたときはアクアアリーナのレストランも行きました。
そうこうしているうちにごく近所に喫茶店がありそこがわーわーずの恒例の場となり、最初は12人がけの大テーブルも埋まらなかったのが店の半分以上も使ったこともありました。
 
あれこれといろいろな思いでありますがほんと初心者には感動する大会で是非これに代わる大会が欲しいものです。

説明:トラックを周回中の針小路さんペア