「福知山マラソン(第15回全日本盲人マラソン選手権)」 田中まさるさんの完走記です

午前3時30分起床、シャワーして、ご飯を食べ、二日前にスポーツ店に駆け込んで買い求めた足と骨盤をサポートしてくれるマラソン用のタイツを身に着けた。あれは10月中旬のことだった。練習会で25キロを過ぎたあたりから急に右膝が痛み出し、走れなくなり、けっきょくそこから10キロの道のりを歩くことになったことがあった。それから長い距離は走らずにいたこともあって、膝の痛みを感じることはなかったけれど、本番は大丈夫だろうか?っていう不安はずっとあった。だから、かなり高額ではあったが、このタイツを手にいれずにはいられなかったのだ。ところで、これをはくのにはちょっとしたコツがいる。きっちり足首から膝関節、股関節、骨盤までをサポートするためのものだから、弾力性も大きいので、足先から少しずつたぐり上げるようにしなきゃならず、しっかりと筋肉の走行にも合わせなきゃならない。しかし、前日にも練習しつつ試しに部屋ではいてもいたので、それほど時間はかからず、うまく身に付けられた。あー、やれやれだ。 まだ真っ暗な中、いよいよ出発。大阪駅のホームで伴走してくれるTさんと待ち合わせた。僕が始発電車に乗って大阪駅に到着したのは5時半、彼はもっと早くに到着していて、福知山行きの列車を待つ人たちの列にならんでくれていたのだ。5時50分発の福知山行き列車は福知山マラソンに出場するランナーたちでいっぱいだ。ならんでもらっていなければ福知山まで2時間40分くらい立ちっぱなしってことになっていたかもしれなかった、Tさんのおかげで無事席を確保し、ようやくほっと一息ついたのだ。長い1日の始まり、フルマラソンはすでに始まっているんだなあと感じた。
昔っから陸上競技が好きだったので、一度はフルマラソンを完走してみたいと思っていた。わーわーずっていうマラソン練習の団体にもずいぶん長く所属しているにもかかわらず、なかなかフルへの挑戦となると腰がひけてもいた。ともあれ、2年前に、このわーわーずの15周年の記念の曲を作ったことが、そんな僕の背中をおしてくれたのだ。せっかく歌作ったんだから、この流れにのってフルに挑戦してみたいなと思った。そんな気持ちを受け取ってくれたのがTさん、それはちょうど1年ほど前のこと。それからすぐに練習を始めたかといえばそうでもなく、CDのことやら仕事のことやら体調やら・・・、本格的には5月くらいからだったか・・・、そんなこんなで、福知山マラソン当日をむかえたのだ。
無事福知山駅に到着、会場までのバスに乗るため少し歩いた。やや寒い、僕は長そでのシャツは持ってきていないと言った。「えっ?このあいだ打ち合わせしておいたのに、持ってきてないとは・・・」とTさん。シャツ1枚のことだから、そんなに荷物になるわけじゃないし、持って来ておけば寒さにも対応できたのだ。やれやれ、タイツのことを気にしすぎたのか、すっかり頭から飛んでいた。っていうか、もう少ししっかり準備しなければね。そういえば手袋さえも忘れてきてしまっているのだった。こうなったら、走る時、それほど寒さがきびしくないよう祈るばかりだ。
バスの席に座ってぼんやりしていると、後ろの席のランナーたちの声が自然と聞こえてきた。彼らは外科医のようで、久々の再会らしかった。海外で行われた学会に参加した時のことやら、大変だった心臓の手術のことやら、別世界の話しが展開していた、それにマラソン大会にも多々参加しているようだった。元気でタフな人たちだなあ、やはりフルを走ろうって人たちはすごいなあって思いつつ、今日が終わる頃には僕はいったいどうなってるんだろうか、フルマラソンランナーの仲間入りがかなっていればいいなあって思った。
会場はまるでお祭りさわぎだった。ものすごい数のランナーたち、早く受付をすませてくださいっていうアナウンスがずーっと聞こえていた。42.195キロを走るっていうのはそんなにも楽しいことなんだろうか・・・、どうしてこれだけの人たちがわざわざここまでやってきて、フルマラソンっていう難関に挑戦しようとするんだろうか・・・、この場におよんでも、まだ自分にもよく分からないのだった。
スタート地点の近くに、視覚障害者用の準備場所が用意されていた。僕らはそこで走る準備をした。ゼッケンを付け、靴をはき、ストレッチした。視覚障害者の仲間たちとも再会、何だか心強い。トイレには何度か行った。朝おにぎりをふたつほど食べただけなんだが、腹は数回痛くなり、もうそろそろスタート地点に移動するっていう直前まで、僕はトイレの中でとじこもり、自分のおなかと会話していたのだ。まったく大事な時に・・・、便意っていうのはやっかいだ。こんなことが真に迫って気になるのもマラソンならではだろう。ともあれ、何とかおり合いをつけ、どたばたと、Tさんにしっかりガイドしてもらいながらスタート地点にたどりついたのだ。
「田中さん、大丈夫やからね!」ってベテランのブラインド・ランナーさんが声をかけてくれた。一般のランナーたちは予測タイムに応じて、並ぶ位置が決まっている。当然タイムの速いランナーは前の方に並べるし、タイムが遅いランナーはずいぶんと後ろに並ぶのだ。けれど、この大会では視覚障害者ランナーである僕らはスタートラインに最も近い位置に並ぶことができた。すごい!それにしても、あー、やっとここまで来たのだ、福知山、Tさんにも練習から何からずいぶんお世話になっている、膝は痛み出さないだろうか、走り切れるだろうか・・・、不安はつきない。いったいどうなるやら。けれどそれより大きな興奮が高まる。こんな時の僕は根っからのおちょうしものなのだ。どきどきする~!何とかなる~!これから始まる冒険に心震えるばかり~!Tさんと握手、いよいよ始まり、みんなでカウントダウン、そしてスタート!
曇り空、しかし雨は降っていない。思ったよりも暖かい空気、半そでシャツ、手袋も無しの僕だが、この天候は幸運だ。まったく僕はついている!そして、みんなやたらと速いのだ。そりゃそうだ、この位置に並んでいる人っていえば、むちゃくちゃ速いランナーさんたちなんだから。信じられないスピードで走っていく。それに、後ろから僕らを抜いていくランナーさんたちもやたらと速いのだ。そりゃそうだ、2時間台や3時間台で走ろうって人たちばかりなんだからね。僕からすればみんな怪物だ。なにしろ僕の目標タイムは、精一杯速く見積もっても4時間30分なのだ。ともかく自分のペースを守らなければ。いくらおちょうしものとはいっても、このペースにつられて走ってしまったら、つぶれてしまうのは目に見えている。ゆっくりゆっくりと走る。
Tさんの伴走のスキルはこの時点ですごかった。後ろから抜いていくランナーたちのじゃまになたないようにしながら、スタート直後のいくつかの曲がり角をアウトコースからしっかり曲り、人波の中を安全に走ることができた。僕を抜こうとして転倒するランナーがいた。スタートして数分なのに、仮設トイレに向かうランナーもいた。僕らはほんとうにたくさんのランナーにかわされながら、ようやく落ち着いて走れるようになっていったのだ。福知山の空気はとても新鮮だ!緑のにおいで気持ち良し!こんなに遠くまて来たかいもあるってもんだ。この時間をまるごとぜんぶ味わおう!
Tさんとは夏あたりから週に一度くらいのペースで長居公園で練習した。彼はフルはもちろん、100キロマラソンも何度も完走したことのあるランナーだ。
僕の力を考えながら、無理のない範囲で練習してくれた。いろんな話をしながら毎回少しずつ距離を伸ばしていった。お互いの仕事やら、これからの夢やら、音楽の話やら・・・。そういえばTさんが40歳代になって本気で走り始めたのは村上晴樹さんの「走ることについて語る時に僕が語ること」っていう本がきっかけだったと聞いて、僕もその本を読んでみたりした。走ることは僕にとっても昔っから大切なことだから、すごく共感できた。今回の目標は何といっても完走だ。また次も走ろうって思えるような完走なのだ。Tさんはたくさんのブラインド・ランナーの伴走者としてレースに出場している。一人で走るマラソンもよいけれど、二人でゴールして喜びを分かち合えるのがうれしいと話してくれた。そして、完走できたら、ぜひその経験を歌にしてほしいと彼は言った。練習の後はほぼ必ずビール飲みながら夜ご飯、ともかくランナーっていうのは元気な人たちなんだなあって思った。ところで、走ることが生活の一部になると、ただでさえ大好きなビールが、めったやたらとうまいのだ。練習後の風呂屋っていうのも何とも心地よいのだ。体もずいぶん変化した。少しずつ引き締まってくるのだ。特に大臀筋辺り。ともあれ、ちょっと霧がかかったような福知山の道を快調に走った。曇り空に時々太陽がのぞく。雨はやっぱり降っていない。タイツのはき心地も上々だ、これならいけるかも!
1キロ6分10~20秒くらいを刻みながら心地よく走り続けた。これなら目標の4時間30分も夢ではない。いっしょに走るランナーたちの足音が360度周囲から聞こえてくる。良い音だ、みんな修行僧みたいに自分と向き合いながら、遠いゴールを目指しているのだ。時々、僕のゼッケン番号を呼んでくれるランナーさんがいた。僕がブラインド・ランナーと気づいて応援してくれているのだ。「ファイト!」って僕も声を返す。5キロごとにあるエイド地点、水をしっかり補給しながら、10キロを過ぎ、15キロを過ぎ、20キロを過ぎていった。道端では応援してくださる人たちがいたり、バンドの演奏があったり。個人的にエイドの準備をしている人たちもいたなあ。この道をまた帰ってくる頃には僕はどうなっているのかなあ、元気にまた帰ってきたいなあ、おいしいものを食べさせてくれるんだろうか、楽しみだなあなんて、今思えば、ほんとうに呑気に走っていたのだ。
ゆるやかなアップダウンがあったけど、心臓も肺も足も自然にそれを受け入れてくれた。木々の中を走るのも心地よい。25キロを過ぎても調子はかなり良い。わーわーずのメンバーさんや知り合いのランナーさんたちの声に励まされながら、まるで大人の遠足みたいな気分だったな。この時期からすれば気温はかなり高いようで、暑さにばて気味のランナーもいるようだった。半そでシャツで調度良し!そして、折り返しポイントの28キロ地点に到着したのだ。大きなコーンにタッチして、いよいよこれから帰り道、ゴールまで残り約14キロ、そこから長い長い道程が待っていたのだ。
折り返してからすぐにエイドがあって、お汁粉をいただいた。甘さがたまらなくありがたくて、ここからも頑張れるって思った。のも束の間・・・。
30キロを目前にしてすっかりペースダウンしてしまった。突然のこと、両足を激しいだるさが襲ったのだ。あんなに軽々と走れていたのが嘘のようだ。まるで両足が大きな大きな重りみたいだ。前に踏み出す旅にその重だるさと闘わなくちゃいけない。
そういえば、このレースに向けての練習で走った最長距離は28キロ程度なのだ。神戸でのマラニックに参加した時のことだ。神戸から明石大橋の間の道をみんなで走った。9月末っていうのにむちゃくちゃ暑かったな、コンビニに寄って、その度にガリガリくんを買って食べた、これがまたうまかった。
Tさんとの練習での最長距離は35キロになる予定だったが。第2京阪道路にそっての道、福知山のアップダウンのある道を想定しつつ、ここで35キロいければ大丈夫っていう予定であった。10月中旬のことだ。その時は25キロ辺りで右膝が痛み出し、走ることができなくなってしまい、Tさんと二人、10キロ程度歩くことになってしまった。みんなはすっかりゴールして、僕らはずいぶん遅れてしまった。途中で電車があれば乗ることもできたのだが、近くには駅もなく、いっしょに歩いてもらうほかなかったのだ。Tさんには迷惑かけちゃったなあ、申し訳ないなあと感じながら、それでもお互いに家族の話などしながら、僕はその時いちばん気にかかっていた父のことを話してたと思う、ともかく、長い長い道を最後まで歩いたのだ。みんなとの打ち上げには間に合わず、たった二人で王将で打ち上げした。Tさんにはほんとうに感謝した。そんなこんなで、いよいよ未知の距離に入って、体はそれに反発しているのかもしれない。やれやれ、すっかりブルーな気持ちと体を引きずりながら30キロを通過した。
マラソンは30キロからが勝負、本当のマラソンは30キロからだといわれている。それをいやというほど実感しながら走った。両足の重さは腰辺りまで広がり、やがて重さが苦痛に変わっていった。
ふと、Tさんが口癖のように言ってた言葉が僕の頭に浮かんできた。「マラソンは走って完走してこそマラソンだ」。確かにそうなんだけど、それはそうなんだけど、この苦しさは耐えがたく・・・、ついに歩くこととなった。折り返し前とはすっかり世界が変わってしまった。楽しさはどこへやら、苦しさだけがここにあるのだ。「走り続けていれば、それを超えられるよ、楽になるよ」ってTさんはこれまでの経験から出てくる言葉をくれた。でも、苦しみにどっぷりつかっている僕の気持ちはその言葉を受け入れなかった。これはきつすぎる、あと10キロ以上もある。無理かもしれない・・・。でも、ここであきらめるわけにはいかない、絶対にあきらめたくない理由が僕にはあった。
実はこの福知山マラソンは僕にとっては2度目のフルマラソンへの挑戦だったからだ。9年ほど前だったか、宮崎県で行われた青島太平洋マラソンに参加したことがあった。これが僕の初フルマラソン体験だった。レース前日に同僚のブラインド・ランナーと飛行機で宮崎に乗り込んだ。調子よくビールを飲み、ところが夜どうしても寝付けなくて・・・。当日は33キロまで何とか走ったものの、全身の疲労感に耐え切れず、ついにリタイアしたのだ。33キロの制限時間には十分間に合っていたのだが、あまりの疲労感に心まで折られてしまった。ゆっくり海を見ていたい、それが正直な気持ちだったっけ。バスに乗りゴール地点まで運んでもらった。その時はしかたないって思ってた。同僚は5時間20分くらいで完走した。ゴールした人たちを見ていると、どうにもくやしくなってきた。レースのあとで食べた宮崎鳥も、完走していたらもっとおいしかったかもしれなかった。ともかく、どうしても33キロは絶対に超えたい。まずは33キロまで行こう。そんな気持ちで何とか走りだした。
そして、何とか33キロを超えた。やっとここまで来たんだな、まったく青島太平洋マラソンから何年かかったんだろうか・・・、とはいえ、このフルマラソンから解放されるまでにはまだまだ苦しまなくちゃいけないのだ。幸いにも右膝のどうにもならない痛みは出ていない。自分の体とは思えないくらいに足腰が重くて痛いだけだ。ここからは歩いたり、走ったり、また歩いたり・・・。4時間30分での完走は難しくなってきた。いやそれどころか、5時間を超えてしまうかもしれない。
Tさんにはひとつの考えがあった。ゴールまでの道、最後の2キロくらいは上り坂だ。5時間を超えてしまうと、交通規制が解かれてしまい、道の真ん中を走ることができなくなるのだ。車が走る道端を走らなきゃいけなくなる。Tさんは僕の初フルマラソン完走を、しっかり最後の坂道のど真ん中を走ることで終えたいって考えてくれていたのだ。
その気持ちはとてもありがたかった。しかし、体の方はいうことをきかない。何とか心をつないでゆっくりゆっくりと走る。Tさんはたまりかねてペースをあげる。ロープが引っ張られる。けれど、僕はそのペースにはついていけないのだ。確かに5時間以内でゴールしたい、けれど、引っ張られながら走ることは、さらに僕の気持ちをつらくするのだ。自分の意思で走っていると思えなくなる、走らされている感覚になってしまうからだ。そして、走り続ける限り、ブラインドの僕はそのロープを手放すことはできないのだ。たまらずに、「ひっぱらないでください」とTさんに伝える。Tさんはペースを落とし、僕らはまた歩いたり、走ったりを繰り返しながら進んだ。
35キロ、36キロと進んでいく。暖かな日でほんとうによかった。こんなにゆっくり進んでいたら、体はすっかり冷え切ってしまう。寒い日だったらって想像したら、ぞっとしたのだ。エイド地点にはスタッフの人たちがいて応援してくれるのだが、ここで元気出さなきゃって思うのだけど、やっぱりペースは上がらない。外からの働きかけにはどうしても気持ちは反応してくれなかった。
そんな時に僕の心をよぎったのは、いつも僕の周りにいてくれる人たちのことだった。フルマラソンを走るってことで、自分を支えてくれた人がいる。マッサージをしてくれた人もいる。いっしょに練習した人たち、特に右膝を悪くしてから、ランニングフォームについてアドバイスしてくれたランナーさんもいた。たまたま京都の練習会に参加した時のことだった、あれから自分なりにも工夫して、膝への負担を減らせるように股関節で体を支えながら走るフォームを意識できた。肩甲骨を前後にしっかり動かしながら、それによって腹筋を使ってのひねり運動が生まれ、股関節から自然に足が前に出るようになる。本当にそれができているかどうかは分からないけれど、全身を使って走っている実感が持てるようになったのだ。膝の痛みが出てから後の練習のほうが、実際には充実した時間だったかもしれないなあと感じさえする。ライブでもフルを走ることはみんなに話してきた、僕の音楽を応援してくれている人たちの顔がうかんでくる。学校でも、フルを走ることはネタにしてきた、学生さんたちの声が聞こえてくる。やれやれ、リタイアしたなんて到底言えないだろうなあ・・・。ちょっとした意地みたいな感情もこの場合には大きな支えになるらしい。フルマラソン完走、自分一人では成しえない、僕はとても弱い存在なんだな、いっぱいの人たちに支えてもらっているんだなあと実感したのだ。
そういえば、とある方のアドバイスで、痛みそうな場所にはパイオネックスっていう小さな鍼を張り付けていた。膝がとことん痛まないのはそのおかげかもしれない。これまた幸運だ。全身の疲れを取ることができるっていう合谷っていう経穴にも貼り付けている。手の裏側、親指と人差し指の間だ。それをぐーっと押しながら、こんな時はもう神頼みっていう心境で、ゆっくりと先を目指した。
苦しい気持ちばかりに捉われていてはいけない、気持ちを切り替えなければ・・・。そんな時、道端から大きな応援の声が聞こえた。わーわーずのメンバーさんたちだ!その声が背中を押してくれた。そこから数キロは良い感じで走ることができた。あー、涙が出そう、ほんとにきつい。でもゴールは確実に近づいてきた。そして、またもや歩く、そしてまた走る・・・。
40キロをいよいよ超えた。あと2キロ、ここからが最後の坂道だ。ようやくここまでやって来た、しかし、感動なんてまだまだ感じられなかった。途方もなく長い坂道なんだろうと思えた。この時点で、交通規制はまだ解除されていないようだった。最後まで今日は幸運だ。僕はかなりついている!そして、この福知山マラソンのひとつの名物になっている企画があった。地元の小学生さんがゴールまで坂道をいっしょに走ってくれるのだ。僕といっしょに走ってくれたのは5年生だったかな?の女の子だった。さすがにここまで走ってきたあとの坂道はハードで、やはり歩いたり走ったり・・・。もう力は残っていない。「最後は走ってゴールしましょう!」とTさん、そうだなあ、そうでなければフルマラソンを完走したっていえないなあ・・・。
そんな時、ゴール地点から音楽が聞こえてきた。ブルース・スプリング・スティーンのボーン・トゥー・ラン!パワフルでしわがれたボーカルだ!うわあ、いいなあ!帰ってきたんだなあ!ゴールはもうすぐそこなんだなあ!いきなりに気持ちが動きだした!恐るべし、音楽の力!最後の400メートルくらいを僕とTさん、そして小学5年生の女の子でしっかり走ることができた。分けの分からない涙が出てきた。胸が熱くなり、体中にその熱が伝わって、ふわっと宙に浮いているみたいだ。きたきたきた、ぐーっときた!ここまで帰って来れたこと、ゴールできること、ようやく苦しさから解放されること、たくさんの人たちに支えられている実感・・・、いろんな想いが混ぜこぜになっている。3人でしっかり両手を挙げて、ゴール!あー、ありがたや~!
ゴールしたら世界が変わりますよ、自分自身が生まれ変わったような気持ちになりますよ、フル出場の前にそんなことを言ってた人がいたけれど、到底そんな気持ちにはなれなかった。控え室まで歩く時、服を着替える時、電車に乗り込んで帰る時、いやあほんとに体はむちゃくちゃきつかったですね。確かに宮崎で叶わなかった夢が叶ったわけだし、今までできなかったことを成し遂げられたわけで、それはとてもうれしいのだけれど、さてこれをもう一度やりたいかって訊かれたら、分からないっていうのがあの時の正直な気持ちだと思う。それほどに疲れ果てたのだ。ゴール手前でぐっときたあの感覚、それはとても喜ばしいものだったし、そうそう味わうことのできない感動なんだと思う。けれど、その気持ちを味わうために、あれだけの苦しみを受け入れなきゃいけないなんて、フルマラソンをやる人たちはやっぱり普通じゃないなあ、タフなんだなあって感じた。
ともかく、帰りの電車でTさんとビールで乾杯、といきたかったのだが、ビールを駅で手にいれることができず、大阪まで帰って来てから、いつもの店で乾杯したのだ。今日が無事に終えられたことにほっとしつつ、Tさんには、何から何までお世話になりっぱなしで、本当に心から感謝したのだ。気持ちに余裕を持てないままだったけれど、Tさんのおかげでフルマラソンの1日を満喫できたのだ。翌日は仕事、授業2コマにあん摩を2本、さらにその後は高槻に移動してテリー島津くんのライブに参加することになっていたから、打ち上げは軽めにおさえ、これまたいつものお風呂屋で体をいやした。ちなみにゴールタイムは5時間06分42秒だった。
じんわりと喜びを味わえるようになったのは翌日からのことだ。学校に何とか行き、筋肉痛に耐えながら、フルマラソンを完走できたと学生さんたちに報告、みんな喜んでくれた時、とりあえずゴールまで辿り着けたことをうれしく、そして誇らしく思った。と同時に、途中で歩いてしまったことや、ともすれば紙一重であきらめてしまったかもしれない自分の弱さも真に迫って感じられるようになった。けして一人ではできなかった、人は何て弱い存在なんだろうか、そして、僕の中にたくさんの人たちが存在していてくれることこそが、僕の人生のひとつずつを支えてくれているんだなあってはっきり感じられるようにもなった。
それからすっかり走ることから遠ざかった。仕事して、歌って、飲んで食べて、1か月くらいが過ぎた頃、また新たな気持ちが生まれていた。フルマラソンについて想い返す時、あれほど苦しかった感覚がすっかり消えてしまっているのだ。その代わりに、うれしかったことばかりが頭に次々と浮かんでくる。とても不思議なのだけれど、練習のひとつずつや、レース当日の経験のすべてが輝いていて、時間の経過とともにそれはさらに輝きを増していく。確かにあの時、いろんなことを心と体で感じながら、僕は生きていたんだなあって思える。そして、証拠にもなく、またフルマラソンを走ってみたいなあという気持ちがむくむくと立ち上がってきたのだ。
今はまた少しずつ体を動かしている。体調はあまりよくないのだが、だからなおさら、フルマラソンを完走できたことはまるで夢の中での話みたいに思える。とはいえ、あの苦しさを僕は体で知っているわけだから、今度フルに挑戦した時には、その苦しさをもっと良いかたちで乗り越えることができるんじゃないかなあって思うのだ。人間はこりない動物だ。来シーズンは3つくらい、フルマラソンを走ってみるっていうのはどうだろうか・・・。
最後に、あらためてTさんに心より感謝します!いっしょに福知山を走れたこと、かけがえのない経験に感謝です!

そして、こんな詞ができました~!

長い長い道の途中
頭も体も痺れてる
折れそうな足を引きずって
旅の終わりをめざす

苦しくて苦しくて苦しくて
苦しくて苦しくて苦しくて
苦しみたちの向こうには
もっと大きな喜びが待ってる

がんばれって君の声
大丈夫だよって友の顔
懸命に想いをつないで
夢の場所にたどり着いた

うれしくてうれしくてうれしくて
うれしくてうれしくてうれしくて
うれしさたちが結ばれて
新しい夢が今生まれた

苦しさのすべて
もうどこへやら
うれしさを抱いて
旅を始めよう

うれしくてうれしくてうれしくて
うれしくてうれしくてうれしくて
うれしさたちが結ばれて
新しい夢が今生まれた

2016別府大分毎日マラソンでの和田選手と福永選手

2月7日日曜に行われた2016別府大分毎日マラソン、今大会はパラリンピックマラソン代表最終選考レースとしても実施され、その代表選考レースのIPCの男子の部に、長居わーわーずからは和田伸也選手と福永智洋選手が出場しました。

まずは、代表推薦枠の最後の1つを、2015IPCマラソン世界選手権5位(2時間37分48秒)の熊谷豊選手と争うことになると目された和田選手。

その座を和田選手が獲得するには、熊谷選手より先着したうえで、熊谷選手が2015IPCマラソン世界選手権(ロンドン)でマークしたそのタイムを上回ることが求められました。

両者の争いは予想通りに激しいものとなりましたが、軍配は、2時間33分46秒(男子T11日本記録)をマークした和田選手に上がり、和田選手が代表推薦枠の最後の1つを獲得しました。

なお、パラリンピックの視覚障害マラソンで、各国に割り当てられる選手枠は原則3名ですが、代表の正式決定は6月末以降となります。

また、2時間58分42秒(2011年福知山)の自己記録を持つ51歳の福永智洋選手は、今大会の目標タイムは3時間8分。
1ヵ月半前の防府マラソンを3時間12分27秒でまとめた時には、今大会に向けての準備は万全かと思われました。

しかし、1月に風邪をひいた影響などで思い通りのレース運びができません。
それでも、持ち味の堅実な走りで、安定したラップを刻んでいき、3時間13分32秒でフィニッシュしました。

大会史上最多の3402名のランナーがスタートラインを越えて行った2016別府大分毎日マラソン。
スタートの12時の気象コンディション(主催者発表)が、気温6.5度・北北西の風0.8メートルと、数字上はやや低い気温ながらも、この大会にしては風が穏やかな晴天の下でレースが始まりました。

それでは、両選手によるレポートをご覧ください。

■和田選手の完走記

今回のレースは、13名のIPC登録男子選手が出場し、リオに向けて走りましたが、推薦順位第3位の座をかけての、熊谷選手(T12)と私との実質的な一騎打ちのレースとなりました。推薦順位第1位はすでに堀越選手(T12)が決めていて、推薦順位第2位は岡村選手(T12)が確実視されていました。
序盤から先行した熊谷選手に私が終盤追い上げ、ようやく追いつけたのは41Kすぎでした。私はレース序盤から中盤にかけ、冷静に自分のペースを想定通りにリズムよく刻み、後半にくるだろう勝負どころで、いつでもいける心の準備をしていました。
最初から前を走る熊谷選手は全く見えないものの、35Kの折り返しくらいからじわじわギアを変えていき、追い風にも乗っかり、かなり体は動いていました。
前半20K伴走のGさんとのリズムもっぴったりで、中盤までのペースがよかった証拠ですね。
当初、40Kまでのどこかでは、熊谷選手の姿を捉えたいなと思ってはいました。
しかし、行けども行けども姿がありません。折り返しでも、後半伴走のNさんが熊谷選手の姿を見なかったということでしたし、一瞬、棄権でもしたのかなとも思ったくらいでしたが、39K地点の沿道にいた私の妻が、熊谷選手との差が1分だと情報をくれました!!
「え、そんなに前にいるのか、残り3Kしかない。万事休すか…」と心が折れそうになりましたが、「いや、いくしかない。」、見えない相手に対してすでにペースはあげていましたが、ここからは大爆発させるぞ!と気合を入れ直し、ギアをもう一段階あげました。
すると、40K手前くらいで、熊谷選手の姿がやっと遥か遠くに見えてきました!!
「見えた!見えた!!」とのNさんの声。まだかなり遠いようでしたので、残り距離で追いつけるのか、競技場勝負くらいにもちこめるか、でも、あれこれ考えずにもういくしかないとまた気合を入れなおしてギアを更に入れ直して追いかけました。更に力をこめてペースアップですね!!まだまだいけると自分に言い聞かせて。
41K地点くらいだったでしょうか。現地に応援にきてくれてたTさんがでっかい声で、「16秒差!!」と叫んでくれました。
「おお!!確実に縮められてる!!これはもう一発ギアをかえていくしかない!」苦しいけど、更に更にあげるしかないと、そこからまたがつんといって、何度ペースをあげたことでしょうか、ラスト1K付近で熊谷選手をとらえることができました!!
追いつきはしましたが、熊谷選手も私も気合十分、どちらも譲りません。
ここで勝って、リオに1歩でも近づきたいという気持ちは同じで、このレースにかける思いは他のどんな選手にも負けていなかったと思います。
結局、熊谷選手も自己ベストを3分42秒更新する素晴らしい走りでしたし、私も1分53秒の自己ベスト、T11の日本記録更新でしたので、お互いに最高の準備をして、非常にハイレベルな競り合いができたと思います。
競技場でのラスト勝負にまでもちこまれると、私よりもスピードのある熊谷選手の方が有利になりますので、追いついてからは一気に勝負をしかけました。またまた更にペースアップです!!残りの最後の力をふりしぼって。
前に出たとしても、ぴったりつかれると今度はこちらが苦しくなるので、もう無我夢中でのラストスパートでした。その甲斐あって、ゴールの競技場に入る前に順位をあげることができました。感動的なフィニッシュを迎えることができ、ゴール後、Nさんと喜びを分かち合いました。
結果的には、私がわずか20秒先着することができましたが、ほぼ互角の闘いで、ともに全力を出し尽くしました。私の今回の好記録は、強いライバルと競り合ったおかげでマークできたものであることは間違いありません。選考レースにふさわしい、歴史に残る白熱した名勝負でした。
これで私は、推薦順位第3位の座を獲得できたわけですが、マラソンでの代表枠はまだ確定ではありませんので、5000mで代表権(T11)をきっちり獲得できるよう、春以降のIPC公認大会にも挑戦していきます。
日本代表メンバーの公式発表までにはまだ時間がありますので、それまでにやれる
ことはすべてやっていきます!
いつもたくさんご声援、ありがとうございます!!今回のレースでナイス伴走してくださり、強化合宿でも厳しいトレーニングをしてくださっているGさんとNさんはもちろんですが、これまでに一緒に走ってきてくださった皆さんのおかげで、今回の好結果があったと思っています。大変感謝しています。ありがとうございます。
まだまだここからもがんばっていきますので、今後ともご声援、どうぞよろしくお願いいたします。

[ラップタイム]
・5キロごと *最後は2.195キロ
18分40秒、18分32秒、18分03秒、18分13秒、
18分20秒、18分18秒、18分37秒、17分42秒、7分21秒
*35キロ~40キロの17分42秒は35番目、40キロ~フィニッシュまでの7分21秒は13番
目(男子完走者2854人中)。
*なお、以降に掲載の順位は、いずれも男子完走者2854人中。
・前後半
前半:1時間17分29秒 後半:1時間16分17秒

[順位の推移]
中間点 1時間17分29秒    184位
35キロ 2時間08分43秒    127位
40キロ 2時間26分25秒    102位
フィニッシュ 2時間33分46秒 88位

■福永選手の完走記

福永@ブラインドです。

自分は、別大マラソンに参加させていただき、
吉本さんが書いてくださったように、3:13:32でした。

今回は、積極戦法で、前半からいったつもりでしたが、
思うようにペースが上がらず、
後半から終盤、多少の落ち込みは覚悟のうえでしたが、
踏ん張りきれなかった、という感じです。

要因としては、
1月に入ってから、かぜをひいてしまい、
疲労は、完全にとりのぞけましたが、
パフォーマンスも、下がってしまった

自分は一切取材など受けてないのですが、
毎日新聞やTBSテレビなどの雰囲気にのまれてしまった

別大国道のバンクで、余分に脚を使った

35km以降、走路が狭くなり、前のランナーさんを
ぬきにくくなった

などなど、ひとつひとつは数十秒レベルだと思うのですが、
いろんなことが積み重なって数分レベルのロスになったかなと思っています。

結果的に、防府のほうが速かったので、
あらためて、フルマラソンの奥の深さを実感しています。

それでも、てらやんが沿道から応援くださったり、
走行中にいろんなかたが声をかけてくださり、
関西で走っているような気分でした。

また、今回の前半伴走のかたを紹介してくださったかたの
沿道応援が、40kmすぎにあり、
最後の最後まで、気持ちをきらすことなく
燃えに燃えて走りきることができました。

3:13:32は、自分の別大コースレコードですし、
記録をねらって複数走ったシーズンの平均タイムが
3:12:59.5というのは、過去最速なので、またがんばろうと思います。

それでも、わだっちの2:33は、当てられるのに
自分の3:08は外すっていうのは、なんでやねんって感じですけどね。

自分のフルマラソンは、今シーズンはこれでおわりなので
これからはトラックでしっかり走っていこうと思っています。

そして、ゼロからまたつくりなおして、
来シーズンのフルも、またがんばろうと思っています。

お世話になりますが、
よろしくお願いいたします。

[ラップタイム]
・5キロごと *最後は2.195キロ
22分32秒、22分57秒、22分49秒、22分59秒、
22分44秒、22分43秒、23分22秒、23分20秒、10分06秒
・前後半
前半:1時間36分18秒 後半:1時間37分14秒

[順位の推移]
中間点 1時間36分18秒    2177位
35キロ 2時間40分06秒    2002位
40キロ 3時間03分26秒    1882位
フィニッシュ 3時間13分32秒 1834位

参考
[大会開催時間帯の大分市の天候] *気象庁観測値
12時 気温6.0度 北北東の風2.3m/s 湿度59%
13時 気温6.3度 北北東の風2.4m/s 湿度61%
14時 気温7.0度 北北東の風1.6m/s 湿度53%
15時 気温7.6度 北北東の風2.5m/s 湿度54%

■代表枠争いの行方(IPC男子の部)

2016リオパラリンピックマラソン代表の推薦順位2位・3位を決定するこの大会、まずは、序盤から岡村正広選手が推薦順位2位の座を着々と固めていき、2時間27分24秒で、IPC男子の部の1位でフィニッシュします。

一方、白熱化したのは、和田選手と熊谷選手の推薦順位3位争い。
パラリンピック代表に必要な2時間37分48秒はもちろん、自身の持つT11男子の日本記録(2時間35分39秒)を更新するペースでレースを進める和田選手に対し、熊谷選手はその差を徐々に広げていき、35キロでの和田選手と先行する熊谷選手の差は2分14秒。

これまでは終盤の走りに課題があった熊谷選手でしたが、今大会ではそれを克服してきたことを示し、この時点での2人の勝負の決着は、熊谷選手に分があるように見えました。

しかし、和田選手は、35キロから、その熊谷選手をさらに上回る走りを見せます。

まず、40キロまでの5キロを17分42秒と大幅にペースアップ。
そして、さらにその勢いを増した和田選手は、大分川に架かる舞鶴橋への上りにも気付かなかったほどの勢いで猛追して、熊谷選手を逆転。

フィニッシュまでの2.195キロは7分21秒でカバーして、そのままIPC男子の部の2位に入り、和田選手が同代表推薦順位3位を確定させました。

大会公式サイト
https://www.betsudai.com/

第9回京都陸協記録会5000mに出場の和田選手

2015年12月6日、京都市西京極陸上競技場補助競技場で行われた第9回京都陸協記録会(日本陸連公認競技会)において、5000mに出場した和田伸也選手は15分50秒87をマークし、自身が持つ同種目(男子T11クラス)の日本記録を1秒07更新しました。

なお、この大会はIPC(国際パラリンピック委員会)公認競技会ではありませんので、自身の持つアジア記録更新とはなりません。

[参考]和田選手の5000mの日本記録(男子T11クラス)更新の軌跡
2011年10月10日 16分10秒26 関東選手権(上尾)
*従来の日本記録は16分49秒26
2012年9月7日  15分55秒26 パラリンピック(ロンドン)
*アジア記録/銅メダル
2013年4月13日  15分51秒94 大阪陸協記録会(長居第2)
2015年12月6日  15分50秒87 京都陸協記録会(西京極補助)

以下は、和田君の感想レポートです。

2015年度第9回京都陸上競技記録会5000mに出場して
2015年12月6日(日) 西京極陸上競技場サブトラックにて
2組目13時15分スタート

10月のIPC陸上競技世界選手権ドーハ大会で銅メダルを獲得して、好結果を残して帰ってこれたのは大変喜ばしいことでありましたが、記録はといえば、16分31秒04と、自身の持つT11日本記録には遠く及びませんでした。
10月のドーハは、蒸し暑いタフなコンディションでしたので、それはしかたのないところはありましたが、この間、夏合宿などでも、せっかく5000mに向けた強化、厳しいトレーニングにも取り組んできていましたので、
この秋・冬のトラックで5000mの記録を狙おうと準備していました。
前日の12月5日の大阪陸協記録会にもエントリーしていましたが、伴走の皆さんの都合や、自分の体調などからこちらは回避し、12月6日の京都陸協に1発かけようと気合をいれました。
前日は棄権し、自宅周辺で調整でした。
伴走は、2014仁川アジアパラ3冠伴走のI君です。
I君には、これまでにも国内の記録会で伴走をお願いすることが多く、15分台も3度マークでき、記録更新の立役者です。
2013年4月にT11の日本記録を更新した時もI君のガイドでした。
組37人で走るという大混雑レースを、もうなんて言ったらよいか分かりませんが、今回も巧みなロープさばき・位置取りでした。
最初は20人くらいの先頭集団の一番後ろについていました。
前半、目標ペースくらいのかなりイイペースで、よしよしと思っていましたが、3000mくらいで少し集団のペースが遅くなって、ちょっとこれでは記録が出ないなあと思っていたところ、徐々にあげてあげて、ラスト1000mのときには、先頭の二人の真後ろに入ることができました。
I君も、たぶん、ラスト1000mは先頭もあげてくるからしっかりついていこうと声をかけてくれ、よし、と心の準備をして、4000mを通過していきました。
4000mを12分48秒から49秒くらい、これは目標よりもちょっと遅れていましたが、その分、力はためられていました。
残り900mのホームストレートにきて、前の2人、お互いに様子を見ているのか、あまりあげてきません。
なら、こちらからいくかと、I君もちょっとしかけが早いかと思ったそうですが、いや、ここで一気に前へ出るとロープで合図し、ラスト2周に入る手前で一気にトップに立ち、そのまま突き放していこうとギアをかえました。
ついてくるかなあと思いましたが、ここでのスパートが想定外だったのか、すぐに離れてくれて、ぐんぐんオレの体も動き、そのままフィニッシュ!!
ラスト1周も最後まで失速することなく、気持ちよくゴールお駆け抜けると、2年8ヶ月ぶりの自己ベスト!!15分50秒87、1.07秒更新でした。
おお、間に合った、あそこであげてよかったと、気持ちよかったです。
いつも皆さんにはたくさん応援していただき、大変感謝しています。ありがとうございます。
5000mでは、この2年くらい記録に悩み、アキレスけんやかかとの具合にも悩んできましたが、ようやく、アキレスけんの状態も元に近いくらいに戻ってきて、そして、ようやく記録も戻ってきました。
リオデジャネイロパラリンピックも近付いてきています。
またここからしっかりあげていき、ロンドンパラリンピックに続き、2度目のパラリンピック出場、そして、世界一を目指してがんばっていきたいと思っています!!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

以上です。

「2016大阪ハーフマラソン」 野尻さんの完走記です

大阪ハーフマラソンを走ってきました

和歌山の野尻(ブラインド)です
1月31日、福士加代子選手(ワコール)が2時間22分17秒の高記録で優勝した第35回大阪国際女子マラソン。同時に開催された「2016大阪ハーフマラソン」に、どめっちさんに伴走していただき、出場しました。
1年前から、「今シーズンはハーフの90分切りを」と、ひそかに大きな目標にして練習してきました。
競走レースでもなければ自分が設定した目標にも関わらず、1月に入って今日が近づくにつれて、これまでにないような不安を感じ始めました。
和歌山国体が終わった11月から、長居公園で、90分切りに必要なキロ4分15秒のペース走に挑戦。何としても達成してやろうと強く心に刻みながら、色々とイメージトレーニングもしながら本日を迎えました。
今日の夕方はどんな状態で帰宅するのだろうと思いながら、今朝自宅を出ました。
今日は絶好のラン日和です。陸連登録組のおかげでAブロックからスターとできるのですが、それでもなお少しでも前に並ぼうと、1時間あまり前から整列します。いつもは寒くて仕方ないのですが、本日は寒さを感じないどころか、日差しが強くて「これは走ると暑いなあ」と思うくらいの天候です。
12時10分に、6000人のランナーが大阪城をスタートです。
3キロ、4キロ辺りは4分7秒前後で刻み、スタートのロスを一気に解消です。でも、自分にとっては、まるで駅伝ペースのような、こんなペースで続くはずがありません。とにかく前半からきつくてきつくて…。
西に向かって走り北浜で折り返して、6キロの手前で南に向かいます。ここはやや下りが続きます。鶴橋、桃谷の駅前を通過、沢山の沢山の沿道からの声援です。
9キロ過ぎで、同時刻に長居ヤンマースタジアムをスタートした女子マラソンのランナーたちとすれ違います。福士選手がトップのようです。
10キロ手前で東に進路を取り、JR環状線の高架をくぐります。「やっと半分だ」と思うのですが、ほとんど気持ちに余裕もなく、ゴールは果たしてやってくるのだろうかといった印象です。
11キロ過ぎで右折して勝山通りを南に向かいます。懸命にキロ4.15を刻みながらも、少し向かい風が出てきたのでしょうか。
14キロで右折、松虫通りを西に走ります。ここは少し上っている感じで、もう体も限界で、かなり走れている感じなのにキロ4分20秒辺りまで落ちています。「まだ6キロもあるのか…」、絶望的な気持ちになります。
90分は切れなくてもここまでくればなんとか自己ベストは出せるだろう…などと、少し言い訳も考えながら、弱気になるのですが、「後は気合だけですよ」と、どめっちさんの激励。
16キロ手前で左折して我孫子筋を南に、ひたすらの直線です。
息絶え絶えに後ろをついてくるランナーがいます。ここまでくると、みんな気力で走っているのだなあと。
もう距離も何も考えるまい、無の境地と言えばとても言いすぎかもしれませんが、にぎやかなはずの喧噪が「静かだなあ」と感じます。そうすると不思議なもので、JRの高架をくぐり、もう長居センター前の交差点を通過です。
ペースもキロ4分一桁まで戻し、我慢の限界は超えているのですが、とにかく残りは、ただ気力だけ。
我孫子筋を離れ、やがて長居公園内の走路に入ります。いつも練習で走っているところなので、距離感も手を取るようにわかるのですが、とにかく苦しい。そして残り1キロを通過。いつもは向かい風が強烈ですが、今日はそれがありません。ありがたいかぎりです。
ついにマラソンゲートが近づいてきました。ここにきて、ものすごい声援が聞こえます。右折してスタジアムに入ります。
「あと300メートルですよ」と、どめっちさんの掛け声。
300メートルというわずかの残りを頭に考えたとき、急に足が動かなくなりました。必死にもがくように前へ前へ。いやいや、トラック4分の3周が本当に長かったですねえ。
前を行くセッキーさんにあと10数メートル届かず。
ゴール後はしばらくもう動けません。
1時間29分27秒。
「ものすごく大きな壁を越えた」と、だんだんと実感が沸いてきました。
こんな苦しいレースは経験がないですが、後半あきらめなかったこと、気力が最後まで継続できたことが本当に嬉しいかぎりです。またひとつ、大きな自信になりました!
どめっちさんには本当に感謝感謝です!!
沢山の応援を、本当にありがとうございました!
そして本日走られた皆さん、大変お疲れ様でした。
また今後とも伴走を、よろしくお願いいたします。

大阪ハーフマラソンの大会サイトはこちらです。

「第27回 加古川マラソン」 セッキー君の完走記です

12月23日に加古川マラソンを伴走のウスちゃんと走ってきました。タイムは、3時間24分26秒とサブ3.5を初めて切ることが出きました。
初めてフルマラソンを走ったのが2年前の大阪マラソンで、その2週間前の試走会での打ち上げの時にみんなの前で「目標3時間20分を目指したいと思います!」と言ったところ、周りから「そこは大きく3時間15分を目指しますと言え!」と突っ込まれたのがとても懐かしいです。
初フルでの結果は3時間35分台と目標には遠く及びませんでした。その翌年の2月に開催された木津川マラソンで何とか3時間30分47秒と、あと一歩というところまで縮めることが出きました。しかし、その後の東京マラソン、寛平マラソン、大阪マラソン、福知山マラソン、篠山マラソンを走らせてもらいましたがサブ3.5を切ることは出来ませんでした。
いつもみんなから突っ込まれて注意されているのが、「セッキーは、最初から飛ばし過ぎて、後々に疲れてスピードが落ちるんだよ」とよく言われます。そこで、今回の加古川マラソンでは、体調が良いと言っても最初から飛ばし過ぎずキロ5分ペースを保ちつつ走ることにしました。その甲斐もあって、いつもならハーフを超えた辺りからペースダウンするのも無く、そこで、伴走してくれているウスちゃんが25kmをを過ぎたところで、もう少しペース上げても良いよと言ってくれたのですが、残り17kmもあると思ったら、いま上げてしまうと途中で足にくると思い、これまで通りの一定のペースで行こうと思いました。しかし、35km地点ぐらいに足がつりそうになり、少しペースを落としてもらい、エイドで塩分とスポドリを多くとってもらい、ジョグをするような感じでゴールを目指して進みました。その間も横で走ってくれているウスちゃんが、残り5km!長居の2周もないぞ!や残り長居1周、そう思うと頑張れるだろうなど、色々と励ましてもらい最後まで走りきることが出きました。本当にありがとうございました。
タイムを聞いて最初はビックリしました。3時間半を切るのも難しかったのに、それが、3時間24分26秒を出せるとは思いもよらなかったです。一緒の大会に出られてエールをくれたみなさん、沿道で応援してくれたみなさん、チームのみなさん、本当にありがとうございました。
これからも頑張りたいと思います。宜しくお願いします。

第46回防府読売マラソン大会 福永さんの完走記です

福永@ブラインドです。

自分は、藤原新選手が優勝した防府読売マラソン
3時間12分27秒で、走らせてもらってきました。

防府マラソン、25kmの関門が102分のころから
いい大会と聞いてはいましたが、
よく伴走お願いしているみなさんの勝負レースだったので、
自分が走ることは、一生ないだろうと思っていました。

今回、IPC登録の部が開催されるということで、
このチャンスは逃がしたくないという気持ちで、
めちゃくちゃ伴走お願いしまくったところ、
日帰り対応でよければというかたが、二人いらっしゃったので、
お願いさせてもらいました。
(自分は土曜の夜ビジネスホテルに泊まりました)

最初の1kmに5分37秒もかかったときは、
せっかくの防府も、これで終わったかなとかおもってしまいましたが、
道幅も、しっかり確保されていて
思っていたペースで走れるようになってきました。

事前に、30km以降向かい風と聞いていましたし、
土曜に詳しい人から、34kmから37kmは、向かい風と聞いたので、
それまでは自重自重と思って走りました。

確かに向かい風のあるところも、ありましたが、
途中から日差しもなくなって、絶好の気象条件でした。

35kmを、2時間40分50秒で通過し
あと2km風があってもいけるだろうと、それぞれ4分32でカバー。
そこからの5.195kmは、走りに走りました。
40kmまでの3kmはペースアップでき、13分10秒でした。
ラスト2.195kmは、ほぼ4分20秒ペースの
9分23秒の自己ベストで走ることができました。
(これは、今までの9分45が福知山だったからなんですけどね)
で、ラストの7.195kmの31分37秒も自己ベストとなりました。

今シーズン初のフル、まあまあ走れたので、
来年2月の別大マラソンは、もう少し上の記録をめざして
がんばろうと思っています。

また、お世話になりますが、
よろしくお願いいたします。

第18回鈴鹿シティマラソン 赤星さんの完走記です

12月13日(日)に鈴鹿サーキット国際レーシングコースで開催された鈴鹿シティマラソン(5.6km)を走ってきました。例年は鈴鹿おろしが吹く中、寒さに耐えながら走ることの多いこの大会ですが、当日は季節外れの温かさで、汗ばむほどでした。予め視覚障害で伴走者と走ることを伝えていたからか、大会主催者の対応もとてもよく、安心して参加することができました。
コースはアップダウンあり、立体交差あり、何よりも、カーブにカントがついているので、見えていない私でも路面の状況を体全体で感じることができました。また、スタートの合図やフジテレビのF1のテーマソングを聞くだけで、気分がとても盛り上がりました。ぜひとも、この感覚は他の視覚障害の方々にも体験していただきたいと思いました。
走り終わった後、大会スポンサーのAGF(味の素グループ)の方から社内誌に乗せたいと写真を撮っていただきました。社内誌なので見ることはできませんが、よい思い出となりました。
伴走者を探してくださった、おけいはんさん、針小路さん、U先生をはじめ、主催者の鈴鹿市、そして一緒に走ってくださった三重の伴走ボランティアグループ走風のOさんに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。今後も、お世話になることがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。

「第19回視覚障害者マラソン宮崎大会 兼 第24回青島太平洋マラソン大会」野尻さんの参加記です

和歌山の野尻(ブラインド)です。
12月13日、第19回視覚障害者マラソン宮崎大会、兼 第24回青島太平洋マラソン大会に行ってきました。
この日は最高の天気に恵まれ、昼間は20度近くまで気温が上がり、上着もいらないくらいの暖かさ。走ると暑いような1日でした。
この大会は3年連続で出場していて、フルのコースもかなり熟知してきた感じです。
3時間27分と、このコースで初めて3時間半を切ることができました。そして、障害区分別(B1クラス)で第1位をいただくことができました。
前半はキロ4分半から40辺りのペースでいけるところまでいってみましたが、やはり30キロを過ぎてからとても苦しくなり、かなりのペースダウンで地獄のような道のりでした。後半をいかに走るか、この辺りが大きな課題ですが、まあ前半の貯金がなんとか功を奏したのかなというところです。
コースは全体を通してアップダウンは少なく、特に宮崎市内中心部では沿道からたくさんの盛大な応援がいただけます。後半の10キロはすばらしい景色の青島海岸を行くのですが、足元が石畳であったり狭いところがあったりと、少し走りにくい感じがあります(もう疲れきっていますので、あまり関係はないのですが)。給水所は13箇所あり、宮崎の特産品や名物がたくさん。大会名物の日向夏ゼリーは37キロ辺りにあります(記録を狙う場合はゆっくり食べている余裕がないのでちょっと残念!)。
国際視覚障害者マラソン協力会という組織が宿泊や伴走者の斡旋などをしてくださり、宿泊場所である宮崎観光ホテルは、チェックインの際に大会の受付ができたり、また豪華な夕食や温泉大浴場や、朝は大会会場まで送迎バスがあるなど、とてもすばらしい、視覚障害者にとってとても参加しやすい大会です。
これからマラソンシーズン本番ですね。また頑張って走りたいと思いますので、皆さんよろしくお願いします。

第5回神戸マラソン 宗平さんの完走記です

今日は第5回神戸マラソンに行ってきた。
昨年の福知山マラソンからちょうど1年ぶりのフルマラソンだ!
神戸は学生時代の6年間過ごした地であり、まさかその10数年後にそこを走っているなどとは考えもしなかったことなので、実に不思議なものである。

今回の伴走は平日練習で大いに鍛えてもらっているゆうさんだ。
なかなか手厳しいことも言うけれど、たいへん頼りになる存在なのだ。

朝9時。スタートはしたが、18000人が走るため、僕のいるFコーナーが出発できたのは13分後。
その後も団子状態で最初の1キロを通過するのに9分かかるという状況であった。
これはこれで、最初に飛ばしすぎるのを防げて個人的にはありがたい面もある。
しばらくはずっとこんな感じかと思っていたら、少し団子が解消してきたのか、ゆうさんのロープさばきがうまいのか、3キロを過ぎた辺りから、それなりに進めるようになってきた。
沿道にはかなり大勢の人が、温かい声援を送ってくれ、その声援も途切れることがないので、一体何人の人がエールを送ってくれているのだろうと思うくらい、なんともありがたい限りだった。
今回の目標は1キロ6分半のペースで最後までいってなんとか4時間半あたりを目指すことであったが、この辺りから6分半のペースで進めるようになってきた。
この秋は、山城・万灯呂山マラニックに始まり、わーわーずや神戸の方との神戸マラソン試走会、かもぱの姫路合宿と30キロぐらい走るマラニックにも参加させてもらったので、どれだけ持久力がついたのか楽しみだった。

三宮・元町・神戸を過ぎると、道が狭くなり、しばしば団子状態になった。
パンダちゃんのランナーについていって、7キロ地点で新長田駅を通り、巨大な鉄人28号に迎えてもらった。
「よし、この辺りでエイドがありそうだから、バナナでももらおう」と思っていたのだが、まだエイドはないらしい。
その後も、快調に走ったり、団子に入ったりを繰り返しながら、須磨に入ったようだ。
やはり老若男女のみなさんがエールをくれたり、太鼓やならしもので応援してくれたり、子供やチアリーダーのエネルギーをもらったりしながら、いつぞや国道2号線を、JRと山陽電車に囲まれながらそれなりにペースを保って、海の風を感じながら快走していた。
この辺りは試走会で走ったなぁという記憶がよみがえる。
ゆうさんが僕の手をとって、「宗平さん、手を右に出してみて」というので、そうしてみたら、沿道のみんなも手を出してくれていたようで、順にタッチしてくれた。
これは面白いよね!
「3番目の人の手はえらい大きかったなぁ」と聞いてみたら、「あれは猫のぬいぐるみやった」とのこと。
なるほど、いろんなのが応援してくれてるわけね。
そのままパチンパチンとタッチを楽しんでいたら、前にランナーがいたらしく、その人の背中にはい、タッチ、なんてこともしてしまったけど…。
ふと、「泥棒さん頑張ってー!」という声が何度か聞こえる。
ゆうさんに「泥棒って何やろねぇ?」と聞いてみたら、泥棒の格好で走っている人が近くにいらっしゃるらしい。
と聞いた瞬間、「泥棒です。頑張りましょうね!」と声をかけてくださった。
泥棒というにはかなり優しそうな人だった。

垂水の辺りまで来たらしいけれど、まだエイドがない。
密かに楽しみにしてるのに、そう簡単には食べ物を出してもらえないようだ。
ときどき、ブラインドランナーの人を見かけては声をかけて励まし合った。
わーわーずの方にも会ったようだけれど、どなただったのかわからなかったなぁと思っていたら、たくちゃんと、ブラインドの方がどなたかわからなかったのだが、お会いできて嬉しかった。
今回は、「伴走さん、頑張って!」という声も幾度となく聞いた。
今まではあまり聞いたことがなかったのだけど、少しずつ伴走というものが認知されてきたようで非常に嬉しい話である。
ゆうさんも、そんなふうに言ってもらえて、なかなか嬉しそうやった。

おっ、いよいよ折り返し地点の明石海峡大橋が近づいてきて、ただでさえ大勢の応援隊がなお一層手厚くなっている。
「応援もありがたいんやけど、そろそろ腹がへってきたので、食べ物のあるエイドを開いてくれ。折り返しまでに一カ所もエイドなしはいくらなんでも…」と心の中で唱えていた。
前半はなかなか快調に楽しみながら走れているぞ!
少し腰の辺りが痛くなってきたけれど、まだまだいける。
そのとき、ようやっと、待ってましたのエイドが現れた。
本日一本目のバナナなり(朝ご飯にも食べたから2本目かもしれないけど)。
チョコパンももらったのでエネルギーが補給された。

その後、また沿道に手を出して、何人かの人とタッチを交わして大いに元気をもらった。
勢い余って、気づけばその手を前のランナーのおっちゃん(だと思う)の脇の下へと入れてしまっていた。
えっらい汗かいてはる。
失敬しました。
それにしても、天気予報では雨の心配をしていたのだけれど、雨は家から駅まで降られた程度ですんだのだけれど、天気予報に反して、どうも陽射しがきつくてなんでやねん!
おまけに、海岸沿いはビル街とは違って、陽射しの影響をもろに受けるので、体感温度的にはちと暑くて、なかなか厳しい様相を見せてきた。
だからというわけかどうかは定かでないが、エイドの間隔が狭くなってきて、先程食べ損ねたどら焼きをもらい、走り出そうとしたとき、元気な声が呼びかけてくれていた。
なんと、おけいはんさんである。
やはり、知ってる人に会うとそれだけで嬉しいし、お互いに目標を言い合って、エールを送り合うのも実に楽しいものだ。

30キロの辺りにきた頃だろう。
ゆうさんが「宗平さん、ちょっと疲れてきてるやろ」と聞いてきた。
まさにズボシである。
腰だけでなく、ふくらはぎも膝も痛くなってきて、後12キロが途方もなく長く感じられてしまうというのが正直なところだ。
1年前の福知山のときも「30キロの壁」が大きかったが、やはり今年もまだまだその壁は手強かった。
まだまだ持久力が足らず、修行不足を痛感してしまう。
そんなとき、エイドでいただいたみかんの酸味がなんともおいしかった。
その横のおっちゃんに手を出すと、塩昆布をどっさり乗せてくれた。
そして、塩飴をもらったのだが、僕は飴はかまずにずっと口の中に入れておきたいもので、これがその後の苦境との良きパートナーとなってくれた。

30キロ付近ではまだ6分半のペースをなんとかキープしていたが、33キロ辺りではもう完全にペースダウンである。
給水所で水を飲んでは、屈伸して、アキレス腱を伸ばし、エアサロンパスを吹きかけてもらって、だましだまし走るしかないというきつい状況である。
そんなとき、ちょっとしたくぼみがあって、おっととっとどっこい!
少しふんばるも、あぁ、これは間違いなくこけるパターンだ!
とふんばりながらも覚悟を決めた瞬間、なんとゆうさんのスーパーこけたらあかんミラクル必殺技が発動され、どういうわけかバランスが徐々に回復した。
おそるべきゆうさん!

35キロで噂に聞いていた上り坂がやってきた。
ちょっと坂を上る気力が出せず、歩くことにした。
普段ならなだらかな上り程度に思う坂だとは思うが、この地点で遭遇すると話は別だ。
それにしても、この辺りは1キロがなんと長いことか。
でも、声援が途切れないのだから、ペースダウンしててもひたすら進むしかない。
足もかなり限界だが、あと5キロ。
昨年もそうだったが、その5キロが果てしなく遠いのだ。
そうして迎えた37キロ。
「あぁ、宗平さん、また坂があるわ」とゆうさん。
「え?坂って二つもあるんかいな」と一応スローペースで走ろうとしたのだけれど、そのペースでは歩いているのと変わらないとのことで、歩くことにした。
一度歩くと安きに流れてしまう。
その瞬間、なんと5時間のペースメーカーに追い抜かれてしまった。
これはまずい!と思える気力は残っていたようで、給水した後、赤くなっている腰に鞭打って、何とか力を振り絞ろうと試みる。
「あと4キロですよ」
「お、あと4キロ、うーん微妙な距離だな」
300メートルぐらい走ったところで、「頑張れ!あと4キロやで」
「おいおい、さっきも4キロって言ってたけど、どういうことやねん」

たくさんの声援をいただいているけれど、なかなかそれに応じるエネルギーがなく、ゆうさんの「後2キロや」という一言に元気をもらい、あと2キロならなんとかいけるかも、いやここでやらんかったらあかん、という気が出てきて、1キロ7分ペースに近づけることができた。
41キロ付近で、「100%勇気」の歌が流れてきた。
「100%勇気 もうやりきるしかないさ」
そのフレーズに励まされ、ペースを乱さずになんとかやり切れそうな気がしてきた。
「おかえりなさい」の声援が増えてきて、直進コースに入って、ゴールイン!
目標タイムには届かなかったが、4時間57分48、正味で4時間45分31だった。
福知山のときよりは正味で10分程短縮できたかな。
バスタオルとメダルをかけてもらい、炊き出しのスープと神戸スイーツをいただいて終了!
ゆうさんには練習のときからたくさんはっぱをかけてもらい、安心して走ることができ、感謝感謝である。
次の目標はやはり4時間半だろうか。
今シーズンは1月の高槻ハーフ、2月の視覚障害者マラソン、3月の篠山にエントリーしている。
今後もみなさんにいろいろ教えてもらいながら、ともに楽しく走って行きたいので、どうぞよろしく!

第1回金沢マラソン はなてんちゃんの完走記です

11月15日に開催された第1回金沢マラソンを走ってきました。
エントリーは障がい者枠で優先的に走れるということでなんのストレスもなく申し込みが完了しました。第1回ってどうなんだろ?運営面や交通アクセス、コースの状況はどんなだろ?と不安はありましたが、SNSなどから得られる情報はとても細やかで当初の不安はどこ吹く風、楽しみと期待感でいっぱいに胸を膨らませて前日受付に行きました。
わーわーずからもたくさんのブラインドランナーがエントリー、私は伴走のUさん、Yさん、Nさん、Kさんご夫妻の6人で向かいました。
数十年ぶりに訪れた金沢駅はまるで大阪駅の様な広さ、受付会場も駅構内?と思えるほどの近さで、障がい者受付ブースは別になっていてスムーズでした。

日曜日、土曜日から引き続いての雨にテンションは下がり気味。
マラソン会場は兼六園の側、シャトルバスもあったけれど駅から歩いても20分ほどなのでウォーミングアップを兼ねて歩いて行きました。スタート地点とゴール地点は離れているので手荷物はトラックに預けます。ここでも障がい者専用のトラックがあり、荷物を預けていると別行動のわーわーずメンバーと自然に合流できました。そしてろう者の方もぞくぞくとやって来られました。聞けばろう者だけでも70名のエントリー、視覚障がい者を含めると120名のエントリーがあったそうです。素晴らしいですね。

このマラソンでの目標は5時間を切ること。
8月中旬に腰を痛めてかばってると膝も痛くなって歩くのもひょこひょこ状態から徐々にジョグができるようになって10月に入ってようやく休みなしで15キロをゆっくりペースで走れるようになったばかりでしたから最悪7時間かかってもという気楽な気持ちでした。雨も止んでいい感じ?と思ったのもつかの間、また、激しく雨が降ってきました。
開会のセレモニーが終わってようやくスタート、なんと雨もぴったり上がりました。
Bブロックからだったのでスタートロスは約2分いい感じでスタートできました。
沿道は応援の人たちでいっぱい、途切れることなく声を限りに「がんばれー」「いってらっしゃーい」の声と楽器の演奏、小さな子供たち、年配の方々や野球少年チームなどなど、コースの途中に長いトンネルが2か所あるんですがその中にも応援の人たち、住宅街でも家から出てきての応援、金沢のみなさんの熱いあったかい応援に支えられどんどん走ることができて自分でもびっくりでした。

それでも練習はうそをつきませんね。15キロを過ぎたころから足は重たくなってペースダウンし足が動かなくなってきました。でもここであきらめたくはありません。実は30キロ辺りにカレーエイドがあるとのことで、前日に伴走のUさんと「金沢カレーって有名だからたべなきゃね」と話してました。私の初フルは2009年、しんどくなったら次のエイド次のエイドと言いながら走ったことを思い出し口の中でぶつぶつ言いながら、そしてUさんにも励ましてもらいカレーエイドに到着、ところが私はカレーの香りで満足(笑)Uさんに食べてもらいました。次は洋菓子エイドとスタートしたものの太ももが痙攣しそうで歩きが入ってしまいました。まあ、この頃はよくあることです(涙)
でも歩いていると徐々に復活、そんなとき後ろから男性が声を掛けてきました。聞けば東京からの参加、自分も若いころ少しだけ伴走をしたことがあるとか、年齢を聞くと75歳とか、元気で愉快なおじさんに助けられて私も元気をもらいました。

どの大会でもそうですが見知らぬランナーさんが走りながらエールを送ってくださいます。東京のばんばんクラブの方や他県の伴走者さんなどたくさんの方にエールを送ってもらえて元気をもらって走ってます。みなさん本当にあたたかいですね。
私も沿道での応援には「ありがとう」と声を出しています。そうすると自然と元気がでるからです。
洋菓子エイドでは有名なお菓子を食べて大満足、おかげで走れてました。
エイドはコーラ、果物、おにぎり、和菓子、洋菓子とおもてなしでいっぱい、特にコーラはとてもありがたかったです。応援もほぼ途切れることなく私たちの背中を押してくださってます。しんどいときに「がんばってるねー」の声が聞こえてきてはじめて涙が出てきました。そしていよいよゴール、Uさんと両手を挙げてゴールゲートをくぐったときも涙が、、、 感動のゴールでした。そしてタイムは4時間36分36秒と上出来。
しんどいときもあったけど楽しい金沢マラソンでした。コースは緩やかなアップダウンはあるけれど道幅も広くて走りやすいコースでした。
来年も走りたい大会がまた一つ増えました。