大吉さん、2015大阪マラソンで年代別1位

こんにちは。わーわーずガイドの平野です。
本日(4/22)発売された雑誌『ランナーズ6月号』に、昨シーズンの全日本マラソンランキングの速報が載ってました。

全日本マラソンランキングというのは、このランナーズ誌の編集部が主催している企画です。ランキングの集計対象に加わるのは簡単、というか、何も手続きしなくても対象大会(≒公認フル大会)を完走すれば自動的に集計されます。集計は、年度ごとの男女別で一歳刻みで順位づけされます。
全国のランナーが、それぞれのシーズンベストタイムで比べあいますから、ランナー全体の中でのフルの走力がどれぐらいかをはかるには、たいへん公平でわかりやすいものだと思います。

同い年ランナーのなかで100位以内に入れば、氏名を掲載してもらえます。
私がランニングを初めて間もない頃、先輩ランナーからまず最初に教えてもらったことは、この1歳刻みランキングで100位以内に入ることのスゴさです。その先輩ランナーは、毎年名前が載る100位以内の常連さんでした。

高齢になれば落ちていくスピードを、どこまで食い止められるか。
ラニンングを生涯スポーツとして位置づけるとき、この集計はモチベーションになってくれます。またこのランキングは、同年齢で同性のランナーとだけで競ってるようでいて、その実、年齢性別を越えて順位を比べてもなんら公平さを欠かないのですから説得力があります。100位以内ランクインは、広い裾野を持つランナー全員にとってステイタスとなりうるものだと思います。

で、前置き説明が長くなりましたが、2015大阪マラソンを、5時間17分7秒で走られた大吉さん。

絶対的なスピードとはまた別の極み、(失礼ながら)
「ご高齢なのに速い!」
「普通ならそのお歳で元気に歩けるだけでスゴいのにフル完走!」
という極みに向かって挑戦されています。
健常者も含めて全てのランナーがいずれ向き合わざるを得ない壁に向かって。

昨年10月に参加された大阪マラソンでは、男子80代前半の部で1位の表彰を受けられました。あらためて、おめでとうございます。
賞状を練習会にご持参いただくようお願いしました。
賞状の額縁のなかには2枚の写真が添えてありました。1枚は、伴に走られたオリーブさん、ルビーさんとのコース上での写真。もう1枚は、追っかけ応援されたサケもっとさんも加わってのゴール会場での写真です。

このときの様子は、以下のレポートがこのHP内にありますので、リンク2つを以下にあげておきます。

▼「2015大阪マラソン」オリーブさんの伴走レポートです
https://waawaas.sakura.ne.jp/?p=719

▼「2015大阪マラソン」サケもっとさんの大吉さん応援レポートです
https://waawaas.sakura.ne.jp/?p=721

大阪マラソンでは年代別1位でしたが、全日本マラソンランキングで大吉さんが何位かは、まだ速報なのでわかりません。80歳で対象大会のフルを完走された方が、全国で39人いらっしゃいます。トップは4時間26分。サブ5達成者は6人です。日本は広いですね。
そしてこの極みはまだ先も続きます。最高齢は91歳でフルを走られた方がいます。

2015年度は、タイム的には不本意な結果に終わってしまったようですが、その前のシーズンでは、福知山マラソンの4時間35分57秒で、年代別5位に入られた大吉さんですから、偉大なチャレンジもまだまだこれからだと信じています。
わーわーずの皆さんと一緒に、ずっと応援、いつまでも応援していきたいと思います。


写真説明:
左側は、センター玄関で賞状を掲げ持つ大吉さん。
右側は、『広報ひらかた 2016年3月号』のページ。
地元の地域情報誌で、大吉さんが紹介されました。
こちらリンクから記事をご覧いただけます。
https://www.city.hirakata.osaka.jp/html/kouhou/201603html/1603/25.html

和田選手、自身の持つ1500mの日本記録を上回るタイムをマーク

2016リオパラリンピック陸上競技の日本代表入りを目指す和田伸也選手は、第1回大阪陸協記録会(2016年4月3日/長居第2陸上競技場)での1500mで4分17秒82をマークし、自身が持つ同種目(T11男子)の日本記録を約1秒上回りました。

複数の外国選手が、3月の大会で好記録をマークしたことに刺激された和田選手。
この記録会の翌週に行われる「2016大分パラ陸上」での5000mで記録を狙う決意を一層固くし、今回の1500mでは、そこへの足がかりとなるレースを目指しました。

しかし、試合会場へ向かう交通機関が乱れた影響で、ウォーミングアップ不足のままスタートすることになり、また、レース中は思ったほど集団がばらけず、いつも以上に外側のレーンを走ることを強いられます。

それらの影響もあって目標タイムには3秒ほど及ばなかったものの、ラスト300メートルからのスピードの切り替えなど、内容的には目標タイムに十分に匹敵するもので、翌週の大分パラ陸上での好記録に期待を持たせる走りでした。

■公式結果
男子1500m(第1組9時30分競技開始)
和田伸也(若ちゃんFRC)4分17秒82 2組6着  

グラウンドコンディション
9時半 天候曇り 気温18.5度 湿度66% 北東の風0.6m/s

上記結果へのリンク
http://www.oaaa.jp/r_16/rikkyou_1kai/nagai/rel060.html

[注]
今回のタイムは、日本パラ陸連による新記録認定の審査をパスすることで、正式なT11男子1500mの日本記録となります。

遠征地で山田選手、パラリンピックポイントを獲得

2016年3月20日に、世界パラトライアスロン競技会(WPE)バファローシティ大会=南アフリカ=に出場した山田敦子選手は、PT5(視覚障害)女子で6位に入り、パラリンピック出場権を決定するパラリンピックポイントランキングを10位にアップさせました。
なお、総合タイムは1時間25分13秒、スイムのタイムは出場7名中4番目でした。

■大会公式結果
山田敦子 6位
総合タイム  1時間25分13秒
・スイム750m   14分51秒
・トランジション1 1分44秒
・バイク20k    41分39秒
・トランジション2 1分41秒
・ラン5k     25分18秒

コンディション
水温17度 気温18度

優勝
アリソン・パトリック(イギリス)1時間07分31秒

*今大会のバイクのコースについて
高低差60メートルの丘を上って折り返してくる10キロのコースを2周。2キロ~5キロ、12キロ~15キロは最大斜度9%の坂を含む上り。

■優勝者の横顔;ランが武器のアリソン・パトリック(イギリス)
1987年生まれで、陸上競技を怪我により断念後、2013年からトライアスロンに挑戦。
その翌年からWPEに参戦すると、短期間で実力を伸ばし、4戦目の2014世界選手権から5連勝。
スイム750m・バイク20キロを終えてのラン5キロでも20分程度でカバーし、PT5女子で一二を争う走力を持つ。
なお、陸上選手時代には、サンパウロ2007IBSAワールドゲームズ(ブラジル)で、B3女子800m金メダル(2分27秒64)、1500mでも2位(5分03秒27)の実績がある。
今大会の優勝でパラリンピックポイントランキング6位以上を確定させ、イギリス代表に決定。パラリンピックでは有力なメダル候補。

■参照リンク
大会結果
http://www.triathlon.org/results/result/2016_buffalo_city_itu_world_paratria
thlon_event/280685
ITU(国際トライアスロン連合)公式サイト
http://www.triathlon.org/

■山田選手パラリンピック出場枠獲得に向けて

リオ2016パラリンピックのパラトライアスロンでは、実施される各カテゴリーに与えられた出場枠は7名。主催者枠が若干名追加されたとしても、山田選手が所属するPT5女子で、出場権を与えられる選手は10名以下となるもよう。

山田選手は、今年6月末までの一連のパラリンピックポイント対象大会でランキングをアップさせる必要がありますが、中でも4月29日(祝・金)のアジア選手権(広島県廿日市市)と5月14日(土)のWPE横浜大会は、特に重要な大会となるでしょう。

■世界選手権がパラリンピックに先立ち7月下旬に開催

今年はパラリンピックイヤーであることから、パラトライアスロン世界一を決める大会として、リオ2016パラリンピックに大きな注目が集まっていますが、一方、世界選手権も7月23日~24日にロッテルダム(オランダ)で開催されることになっています。

なお、パラトライアスロンの障害クラスには男女計10カテゴリーありますが、リオ2016パラリンピックで実施されるのは、そのうちの男女3ずつ計6カテゴリーのみとなっており、例えば、PT5(視覚障害)男子は実施されません。
一方、世界選手権では、全カテゴリーの競技が実施されますので、パラリンピックで実施されないカテゴリーの選手にとっては、今年の最も重要な大会は世界選手権となります。

リオ選考レースに挑んだ和田・近藤・福永の3選手

※この記事は以下の2つの記事をまとめたものです。
2016別府大分毎日マラソンでの和田選手と福永選手
2016別府大分毎日マラソンで自己ベストの凛々さん

2月7日に、2016リオパラリンピックマラソン代表最終選考レースとしてIPCの部が実施された2016別府大分毎日マラソン。

和田伸也選手が2時間33分46秒(男子T11日本記録)、近藤寛子選手は3時間18分05秒で、各同男女の部で2位に入り、その結果、2016リオパラリンピック視覚障害マラソン代表推薦順位のそれぞれ3位と2位を確定させ、同代表入りに大きく近づきました。
また、同男子の部に出場した福永智洋選手は、調子が良くなかったものの、いつもの粘り強さを発揮して、3時間13分32秒でした。

なお、パラリンピックの視覚障害マラソンの各国選手枠は原則3名ですが、代表の正式決定は6月末以降となります。

■和田選手・近藤選手、代表推薦順位枠内へ

まず、男子。代表推薦枠の最後の1つを、和田選手と熊谷豊選手での争いになるとの事前の予想通りにレースが進んでいきます。
和田選手が代表推薦枠入りするには、熊谷選手が2015IPCマラソン世界選手権(ロンドン)でマークした2時間37分48秒を上回り、同選手に先着することが条件となってきました。

求められていたペースは十分に上回っていた和田選手ですが、その和田選手に先行する熊谷選手は、今大会では、課題だった中盤以降のペースダウンを克服してきた走りを見せ、後半以降も徐々に差を広げていきます。
そして2人の差は、35キロ地点では2分14秒までに広がり、この時点での勝負の行方は熊谷選手に分があるように見えました。

しかし、和田選手は、35キロから、その熊谷選手をさらに上回る走りを見せます。

40キロまでの5キロを17分42秒と大幅にペースアップした和田選手は、熊谷選手との差を一気に詰めていき、いよいよ終盤になったところで、代表推薦枠を巡る勝負は一気に白熱化。
さらに勢いを増した和田選手、舞鶴橋東詰への上りにも、ものともせずに熊谷選手を猛追していき、ついに2人の順位が入れ替わります。

その後も和田選手のスピードは全く衰えることなく、フィニッシュまでの2.195キロは7分21秒でカバー。
なお、35キロからフィニッシュまでの7.195キロの25分03秒は、別府大分マラソン男子全完走者2854名中26番目のタイムでした。

一方の女子。代表になるには、既に代表推薦順位1位を決めている道下美里選手を除くトップでフィニッシュするしかない、と決意していた近藤選手。
序盤から、2か月半前の防府読売マラソンでマークした自己記録を上回るペースで、積極的にレースを進めていきます。

5キロを23分台のラップを刻み続け、25キロ過ぎでは、道下選手に次ぐ2位と目標としていた順位に上がった近藤選手でしたが、30キロからの5キロは24分台に落ちてしまいます。

しかし、続く40キロまでの5キロを再び23分47秒と盛り返すと、後ろの選手との差をさらに広げていき、目標とする順位を確実なものにしていきました。
フィニッシュタイムは、防府マラソンでの自己記録を約3分更新するものでしたが、40キロまでの全ての5キロごとの区間で、その時のタイムを上回るものでした。

大会史上最多の3402名のランナーがスタートラインを越えて行った2016別府大分毎日マラソン。
スタートの12時の気象コンディション(主催者発表)が、気温6.5度・北北西の風0.8メートルと、数字上はやや低い気温ながらも、この大会にしては、風が穏やかな晴天の下でレースが始まりました。

それでは、各選手のレポートをご覧ください。

■和田選手の完走記

今回のレースは、13名のIPC登録男子選手が出場し、リオに向けて走りましたが、推薦順位第3位の座をかけての、熊谷選手(T12)と私との実質的な一騎打ちのレースとなりました。推薦順位第1位はすでに堀越選手(T12)が決めていて、推薦順位第2位は岡村選手(T12)が確実視されていました。
序盤から先行した熊谷選手に私が終盤追い上げ、ようやく追いつけたのは41Kすぎでした。私はレース序盤から中盤にかけ、冷静に自分のペースを想定通りにリズムよく刻み、後半にくるだろう勝負どころで、いつでもいける心の準備をしていました。
最初から前を走る熊谷選手は全く見えないものの、35Kの折り返しくらいからじわじわギアを変えていき、追い風にも乗っかり、かなり体は動いていました。
前半20K伴走のGさんとのリズムもっぴったりで、中盤までのペースがよかった証拠ですね。
当初、40Kまでのどこかでは、熊谷選手の姿を捉えたいなと思ってはいました。
しかし、行けども行けども姿がありません。折り返しでも、後半伴走のNさんが熊谷選手の姿を見なかったということでしたし、一瞬、棄権でもしたのかなとも思ったくらいでしたが、39K地点の沿道にいた私の妻が、熊谷選手との差が1分だと情報をくれました!!
「え、そんなに前にいるのか、残り3Kしかない。万事休すか…」と心が折れそうになりましたが、「いや、いくしかない。」、見えない相手に対してすでにペースはあげていましたが、ここからは大爆発させるぞ!と気合を入れ直し、ギアをもう一段階あげました。
すると、40K手前くらいで、熊谷選手の姿がやっと遥か遠くに見えてきました!!
「見えた!見えた!!」とのNさんの声。まだかなり遠いようでしたので、残り距離で追いつけるのか、競技場勝負くらいにもちこめるか、でも、あれこれ考えずにもういくしかないとまた気合を入れなおしてギアを更に入れ直して追いかけました。更に力をこめてペースアップですね!!まだまだいけると自分に言い聞かせて。
41K地点くらいだったでしょうか。現地に応援にきてくれてたTさんがでっかい声で、「16秒差!!」と叫んでくれました。
「おお!!確実に縮められてる!!これはもう一発ギアをかえていくしかない!」苦しいけど、更に更にあげるしかないと、そこからまたがつんといって、何度ペースをあげたことでしょうか、ラスト1K付近で熊谷選手をとらえることができました!!
追いつきはしましたが、熊谷選手も私も気合十分、どちらも譲りません。
ここで勝って、リオに1歩でも近づきたいという気持ちは同じで、このレースにかける思いは他のどんな選手にも負けていなかったと思います。
結局、熊谷選手も自己ベストを3分42秒更新する素晴らしい走りでしたし、私も1分53秒の自己ベスト、T11の日本記録更新でしたので、お互いに最高の準備をして、非常にハイレベルな競り合いができたと思います。
競技場でのラスト勝負にまでもちこまれると、私よりもスピードのある熊谷選手の方が有利になりますので、追いついてからは一気に勝負をしかけました。またまた更にペースアップです!!残りの最後の力をふりしぼって。
前に出たとしても、ぴったりつかれると今度はこちらが苦しくなるので、もう無我夢中でのラストスパートでした。その甲斐あって、ゴールの競技場に入る前に順位をあげることができました。感動的なフィニッシュを迎えることができ、ゴール後、Nさんと喜びを分かち合いました。
結果的には、私がわずか20秒先着することができましたが、ほぼ互角の闘いで、ともに全力を出し尽くしました。私の今回の好記録は、強いライバルと競り合ったおかげでマークできたものであることは間違いありません。選考レースにふさわしい、歴史に残る白熱した名勝負でした。
これで私は、推薦順位第3位の座を獲得できたわけですが、マラソンでの代表枠はまだ確定ではありませんので、5000mで代表権(T11)をきっちり獲得できるよう、春以降のIPC公認大会にも挑戦していきます。
日本代表メンバーの公式発表までにはまだ時間がありますので、それまでにやれる
ことはすべてやっていきます!
いつもたくさんご声援、ありがとうございます!!今回のレースでナイス伴走してくださり、強化合宿でも厳しいトレーニングをしてくださっているGさんとNさんはもちろんですが、これまでに一緒に走ってきてくださった皆さんのおかげで、今回の好結果があったと思っています。大変感謝しています。ありがとうございます。
まだまだここからもがんばっていきますので、今後ともご声援、どうぞよろしくお願いいたします。

(以上、和田選手の完走記)

[ラップタイム]
・5キロごと *最後は2.195キロ
18分40秒、18分32秒、18分03秒、18分13秒、18分20秒、18分18秒、18分37秒、17分42
秒、7分21秒
・前後半
前半:1時間17分29秒 後半:1時間16分17秒

■近藤選手の完走記

凛々@滋賀です。

リオから採用された視覚障がい女子マラソン。
最終の選考レースの別府大分毎日マラソンにすべてをかけて取り組んでまいりました。
これまでわーわーずの多くの皆さんの激励をいただき、関西のブラインド女子の心意気をもって全力で走りました!
3位のポイント争いになれば、ポイントを持たない私には不利な状況、とにかく自力で2位の座を勝ち取るしかリオへの道はありませんでした。

序盤、自分のペースを守り3番手をキープ、20キロでもまだ疲れはなくほぼイーブン、25キロすぎでまさかの2番手に。
このままいけばリオへの切符を手にできるかもしれない?
終盤、年明け早々のレースで転倒して橋の欄干で頭を強打した名残のむちうちが影響したのか、首に力が入らず上体がふらふらと今にも倒れそうになりながらも、あと少しでリオを手にできると力を振り絞ってゴールに向かいました。

ゴールの瞬間、私を支えてくださったすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

タイムは3時間18分05秒の自己ベストでした。
ポイント争いになることなく推薦順位第二位内定となりました。

ほんとうにありがとうございました!

また、直接皆さんにごあいさつにうかがいたいと思いますが、まずはこちらでの御礼とさせていただきます。

正式決定は6月以降となりますが、リオまでの日々を大切に怠りなく過ごしていこうと思います。

今後ともよろしくお願いいたします!

追伸
関西では放送されなかった別大の一時間延長放送。
中継車がずっと等間隔で前を走る、生まれてはじめての経験をしました(笑)
追い付こうとしたわけではないけど、中継車めがけてはしったせいか38キロからペースあがってました。
私のゴールが番組終了のタイミングだったので、けっこう感動的で、何度みても泣けます(笑)。

(以上、近藤選手の完走記)

[ラップタイム]
・5キロごと *最後は2.195キロ
23分12秒、23分30秒、23分02秒、23分15秒、23分26秒、23分29秒、24分07秒、23分47
秒、10分17秒
・前後半
前半:1時間38分03秒 後半:1時間40分02秒

■福永選手の完走記

福永@ブラインドです。

自分は、別大マラソンに参加させていただき、
吉本さんが書いてくださったように、3:13:32でした。

今回は、積極戦法で、前半からいったつもりでしたが、
思うようにペースが上がらず、
後半から終盤、多少の落ち込みは覚悟のうえでしたが、
踏ん張りきれなかった、という感じです。

要因としては、
1月に入ってから、かぜをひいてしまい、
疲労は、完全にとりのぞけましたが、
パフォーマンスも、下がってしまった

自分は一切取材など受けてないのですが、
毎日新聞やTBSテレビなどの雰囲気にのまれてしまった

別大国道のバンクで、余分に脚を使った

35km以降、走路が狭くなり、前のランナーさんを
ぬきにくくなった

などなど、ひとつひとつは数十秒レベルだと思うのですが、
いろんなことが積み重なって数分レベルのロスになったかなと思っています。

結果的に、防府のほうが速かったので、
あらためて、フルマラソンの奥の深さを実感しています。

それでも、てらやんが沿道から応援くださったり、
走行中にいろんなかたが声をかけてくださり、
関西で走っているような気分でした。

また、今回の前半伴走のかたを紹介してくださったかたの
沿道応援が、40kmすぎにあり、
最後の最後まで、気持ちをきらすことなく
燃えに燃えて走りきることができました。

3:13:32は、自分の別大コースレコードですし、
記録をねらって複数走ったシーズンの平均タイムが
3:12:59.5というのは、過去最速なので、またがんばろうと思います。

それでも、わだっちの2:33は、当てられるのに
自分の3:08は外すっていうのは、なんでやねんって感じですけどね。

自分のフルマラソンは、今シーズンはこれでおわりなので
これからはトラックでしっかり走っていこうと思っています。

そして、ゼロからまたつくりなおして、
来シーズンのフルも、またがんばろうと思っています。

お世話になりますが、
よろしくお願いいたします。

(以上、福永選手の完走記)

[ラップタイム]
・5キロごと *最後は2.195キロ
22分32秒、22分57秒、22分49秒、22分59秒、22分44秒、22分43秒、23分22秒、23分20
秒、10分06秒
・前後半
前半:1時間36分18秒 後半:1時間37分14秒

■上位選手を含む結果
・IPC男子の部
1位 岡村正広 2時間27分24秒
2位 和田伸也 2時間33分46秒(T11男子日本記録)
3位 熊谷豊  2時間34分06秒
12位 福永智洋 3時間13分32秒

・IPC女子の部
1位 道下美里  3時間03分42秒
2位 近藤寛子  3時間18分05秒
3位 藤井由美子 3時間24分06秒

■大会開催時間帯の大分市の天候 *気象庁観測値
12時 気温6.0度 北北東の風2.3m/s 湿度59%
13時 気温6.3度 北北東の風2.4m/s 湿度61%
14時 気温7.0度 北北東の風1.6m/s 湿度53%
15時 気温7.6度 北北東の風2.5m/s 湿度54%

■大会公式サイト
https://www.betsudai.com/

2016別府大分毎日マラソンで自己ベストの凛々さん

2016年2月7日に行われた別府大分毎日マラソン(リオパラリンピック視覚障害女子マラソン日本代表選考レース)、IPCの部に出場した近藤寛子選手は、前年12月にマークした自己記録をさらに3分短縮する3時間18分05秒で、同部門2位に入りました。

この結果、近藤選手は、日本盲人マラソン協会が定めた同代表選考規程により推薦順位2位を確定させ、パラリンピック女子視覚障害マラソン日本代表に大きく近づきました。

■近藤選手の完走記

凛々@滋賀です。

リオから採用された視覚障がい女子マラソン。
最終の選考レースの別府大分毎日マラソンにすべてをかけて取り組んでまいりました。
これまでわーわーずの多くの皆さんの激励をいただき、関西のブラインド女子の心意気をもって全力で走りました!
3位のポイント争いになれば、ポイントを持たない私には不利な状況、とにかく自力で2位の座を勝ち取るしかリオへの道はありませんでした。

序盤、自分のペースを守り3番手をキープ、20キロでもまだ疲れはなくほぼイーブン、25キロすぎでまさかの2番手に。
このままいけばリオへの切符を手にできるかもしれない?
終盤、年明け早々のレースで転倒して橋の欄干で頭を強打した名残のむちうちが影響したのか、首に力が入らず上体がふらふらと今にも倒れそうになりながらも、あと少しでリオを手にできると力を振り絞ってゴールに向かいました。

ゴールの瞬間、私を支えてくださったすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

タイムは3時間18分05秒の自己ベストでした。
ポイント争いになることなく推薦順位第二位内定となりました。

ほんとうにありがとうございました!

また、直接皆さんにごあいさつにうかがいたいと思いますが、まずはこちらでの御礼とさせていただきます。

正式決定は6月以降となりますが、リオまでの日々を大切に怠りなく過ごしていこうと思います。

今後ともよろしくお願いいたします!

追伸
関西では放送されなかった別大の一時間延長放送。
中継車がずっと等間隔で前を走る、生まれてはじめての経験をしました(笑)
追い付こうとしたわけではないけど、中継車めがけてはしったせいか38キロからペースあがってました。
私のゴールが番組終了のタイミングだったので、けっこう感動的で、何度みても泣けます(笑)。

(以上、近藤選手の完走記)

■レースデータ
[ラップタイム]
・5キロごと *最後は2.195キロ
23分12秒、23分30秒、23分02秒、23分15秒、23分26秒、23分29秒、24分07秒、23分47秒、10分17秒
・前後半
前半:1時間38分03秒 後半:1時間40分02秒

[大会開催時間帯の大分市の天候]*気象庁観測値
12時 気温6.0度 北北東の風2.3m/s 湿度59%
13時 気温6.3度 北北東の風2.4m/s 湿度61%
14時 気温7.0度 北北東の風1.6m/s 湿度53%
15時 気温7.6度 北北東の風2.5m/s 湿度54%

■近藤選手の代表選考レースの結果
2015世界選手権マラソン(2015年4月26日)  出場せず
2015北海道マラソン(2015年8月30日)    3時間36分39秒 
2015防府読売マラソン(2015年12月20日)  3時間21分16秒  
 *パラ参加標準記録(3時間27分)突破 
2016別府大分毎日マラソン(2016年2月7日) 3時間18分05秒
 *自己記録3分更新 

「第23回泉州国際市民マラソン」まえっちの完走記です

この前の日曜日、泉州国際市民マラソンに参加しました。
自分にとっては今シーズン最後のフルマラソンだし、比較的フラットで走りやすいコースだと聞いていたので、自己ベスト更新を目指して練習していました。にも関わらず、大会5日ほど前に風邪をひいてしまい、一気にテンションダウン。
 そして当日。体調は完全復活できてなかったので「20kmに満たずにギブアップしてしまうのでは」などと弱気なことを思いながら、はじめの10kmを走りました。
ですが、ガイドのフーヤンさんが読み上げてくれる1kmごとのタイムを聞いているとそんなに悪くない感じ。10km付近の関門では10分近くの余裕を持ちながら通過することができました。
13km付近でガソリンスタンドのトイレを拝借。
その後も胃のむかつきみたいなのがあり、エイドで胃薬と痙攣止め、ジェルなどを服用。
そんなことをしながら走っていると「関門閉鎖まで2分半ですよ」という沿道の声が聞こえてきます。
「えっ、まだまだ余裕あると思ってたのに」、さすがにここでの関門アウトは悔しいと思い、約200m余りをペースアップして走りました。そして何とか関門閉鎖の40秒手前で通過。
 その後は、先ほど飲んだ胃薬とジェルが少しずつ効いてきたのか、気分が上向きになってきました。さすがに20kmを超えた辺りからペースアップという訳にはいきませんでしたが、はじめのペースを保ちながら30km、35kmと通過することができました。
そして、フーヤンさんが教えてくれるタイムを聞いているとどうやら自己ベストを更新できそうなことが分かり、最後は気力を振り絞りました。
 グロスタイムでは福知山の自分の記録に数秒及ばなかったものの、おそらくスタートロスが3分以上あったのでネットタイムでは自己ベストを出すことができました。
自分にとっての今シーズン最後のレースをいい形で終えられて本当によかったです。
当日伴走してくださったフーヤンさん、そして練習に協力してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

「第36回篠山ABCマラソン大会」宗平さんの完走記です

第36回篠山ABCマラソンに参加した。
フルマラソンを走るのは、一昨年の福知山、昨年の神戸に続いて3回目である。
福知山でも神戸でも30キロを超えたあたりで足が動かなくなって歩いてしまったので、今回は歩かずに完走したいという思いがあった。
ネットタイムの目標としては、福知山が4時間58分、神戸が4時間45分だったので、やはりここは4時間30分を目標にして、なんとかサブ4.5を目指したい。
それと、もう一つ今回新しい試みがある。
実は妻からの誕生日プレゼントにGPSボイスコーチなるものを買ってもらった。
これはわーわーずメンバーの中でも最近持ち始めている人が増えているもので、僕も体験させてもらって、一つほしいなぁと思うようになった。
何キロ走ったかや、ペースはどのくらいで走っているかなどを登録した設定にしたがって音声で教えてくれるのだ。
これを帽子に付けてレースに出るのは初めてとなるので、わくわくである。
今回の伴走は、平日の夜練にも付き合っていただいているとんさんだ。
とんさんにとっては篠山マラソンは過去に何度も走られたマラソンだということで、たいへん心強い。

会場まではマラソンバスも出ているようだが、とんさんが車を出してくださるとのことで、朝5時に迎えに来ていただいた。
さすがに4時20分起床はきつかったが、思ったより目覚めはよいようだ。
とんさんのご友人ともご一緒させていただいて、3人で亀岡経由で篠山へと向かった。
道はすいていて、6時40分に到着した。

さて、走り出すのは10時50分だから、おっと、まだ4時間以上あるではないか!
どうやって時間をつぶそうか。
市役所のロビーに荷物場所を確保して、散歩に出かけることにした。
少し空気はひんやりしているものの、3月としてはかなり暖かいようである。
天気予報では、うまい具合にこの日だけ雨マークとなっていた。
ほんとうまい具合に。なんでやねん!
しかも、この篠山マラソンは雨になることが多いマラソンのようで、昨年はひどい本降りの寒いレースだったと聞かされていたので、それなりに覚悟して臨むことにした。
7時を過ぎて、広場にはどんどん人が増えてきて、おにぎり・うどん・唐揚げなどあちこちから屋台の美味しそうなにおいが漂ってくる。
このマラソンは、事前にゼッケンやICチップが送られてきて、受付は必要ないというありがたい大会である。
前日受付のマラソンはやはりどうにもめんどくさい。
7時半に大会Tシャツをもらったら、でかんしょ節の歌詞がプリントされていて、丹波篠山感がよく出ている。
京都キャロットの店が出ていて、いろんなランニングアイテムが安値で販売されていた。
今履いているランニングシューズはそろそろ3年ほど履いているだろうか。
走り心地はいいので、ずっと履き続けているのだが、随分すり減ってきているのもたしかなので、とんさんの勧めてくれたアシックスのシューズを買うことにした。
1万何千円のものが6900円で買えたのでお買い得である。
それから、これまたとんさんが以前より一つ持ってたらいいんじゃないかと言っていたアームウォーマーもゲットした。

持ってきていた十六穀米おにぎりを食べて、腹ごなし。
さて、誰か知り合いは来てないかなと思い、再びとんさんとぶらぶらしていると、オリーブさん、ヨッシーさん、福場さん&ミントまっちゃんペア、カモパの方々といった具合に会うことができた。
1万人規模のレースの人混みの中、やはり知り合いに会えるのはなんとも嬉しい瞬間であり、落ち着ける瞬間でもあり、パワーをもらえる瞬間でもあるのだ。

いよいよ10時50分がやってきた。
申込時の申告タイムにより、一番後ろのDブロックからの出発だったので、ピストルがなってからスタートラインに行くまでに6分40秒かかった。
今回の目標である、ネットタイム4時間30分を切るために、1キロあたり6分15秒では行けるようにしたいなぁととんさんと話していた。
そうこうしていると、帽子に付けているGPSボイスコーチがアナウンスをしている。
1キロ通過。
うん、このガイドはありがたい!
やはり、人だらけで思うようには走れないが、そんなときによく見知らぬランナーが「頑張ってくださいね」など言ってくださって嬉しいものである。
そしてまたボイスコーチのアナウンスが聞こえてくる。
「距離2キロ。ラップタイム5分45秒。」
この1キロは予定していた6分15秒よりもだいぶ速くなっている。
少しペースをゆるめるが、混雑をうまく二人分の幅ですり抜けていくには多少ペースを上げて抜いていく必要もあり、少し速いペースになりがちになる。
それにしても、とんさんはさすが慣れたもので、うまい具合に「右から抜かせてください」と言って混雑をすり抜けていく。
なかなか6分15秒のペースには戻せないのだが、まぁ自然なペースで無理をしている感じでもなく、とんさんも6分15秒にぜひとも戻そうという感じでもないように思えたので、おおよそ5分50秒台で進むことにした。
「このペースでずっと行けるといいですね」と言うと、とんさん曰く「30キロまでは行けるでしょう」
なんとも重みのある言葉だ。
田んぼや住宅街が続くおおむね平坦なコースで、混雑していることを別にすれば、わりあい走りやすい。
最高気温はやはりこの時期としては暖かい18度になるとのことであったが、結構風が吹いていて、暑いという感じではない。
雨もなんとかもってくれていて、コンディションは思っていたよりもよさそうだ。

事前に、とんさんに走るコースの地図を説明してもらっていたので、なんとなくのイメージができて助かった。
やはり、地形や景色や方角などどんなところを走っているのかがわかった方がおもしろさは倍増する。
それから、今回はHPで過去に走られた人の感想をいくつか読んで、17キロ地点に恒例のブラバン応援隊がいること、20数キロのところに丹波黒豆おにぎりの私設エイドがあるという情報を得ていた。
こういったものを楽しみに走れたらこれまたおもしろさ倍増である。

5分50秒のペースで、16キロまでやってきた。いい調子だ!
しばらくして、太鼓の音が聞こえてきた。
「あれ?17キロにブラバン応援隊がいると聞いていたが、今年は太鼓隊に変わってるのかな?」と思いながら通過した。
いやいや、そんなことはないようで、17キロを通過したら、大所帯のブラバン隊が元気よく「ランナー」を演奏していた。
「走る~走る~おれ~た~ち」と思わず歌い出したくなる。
やはり、この歌は定番ながら元気が出る曲だ。

20キロに近づいてきたところで、とんさんが「有森さんがいるから手を右に出して」と言う。
そして、有森裕子さんとハイタッチ!
有森さんはランナー一人ひとりに「頑張ってください」と言ってハイタッチしてくださるのだ。
いやぁ、嬉しい!俄然やる気が出てくる。

そんなこんなのおかげで、ハーフ地点でも5分50秒のペースを保てている。
ここで、とんさんが腕が痛くなってきたので、ロープを持つ手を逆にしてほしいと言う。
「いいですよ」と言って、右手でロープを持って走り始めたのだが、実は右手でロープを持つのは初めてのことであり、どうにも走りにくい。
しばらくすると慣れるかなと思って2キロぐらい走ったと思うのだが、どうも左肩もこってきて、これはまずいという感じになってきたので、やはりロープは左手で持たせてもらうことにした。
後ろから「宗平さん」と呼んでくれている。
おぉ、たかちゃんだ。
久しぶりに仲間の声を聞けて、それだけで随分大きなパワーになる。

さて、20数キロのところに出ているという話のあった、丹波黒豆おにぎりの私設エイドはまだかいな~。
と思っていたとき、とんさんが「おにぎりのエイドがある」と。
おぉ、待ってました~!
まずはとんさんがお茶を渡してくれて…「あれ…おにぎりがないみたいだね~」
「そ、そんなぁ~」
テンションがた落ちである。
売り切れてしまったのか。
おにぎりの恨みは大きいゾ!おいっ!
気持ち的にとぼとぼ走りになってしまう。
しかし、篠山のみなさん、そんなことでは終わらせないぞということで(かどうかはわからないけれど)、またおにぎりの私設エイドがあり、今度は子どもが配ってくれている黒豆おにぎりをゲットした。
うまい!俄然やる気が出てくる。単純なものだが、食いしん坊の僕にはこれがあるかないかで大違いなのだ。

24キロのところに、このマラソンの名物であるしし汁のエイドがある。
これはぜひ飲みたいのだけれど、器とお箸でしっかり食べるようなものであり、食べるのに結構時間がかかるのでどうしようかと思っていたところである。
ただ、このしし汁、ゴールした後にも振る舞ってくれるというので、そちらでゆっくりいただくことにして、スルーすることにした。
ゲストのかつみ・さゆりのさゆりの甲高い応援の声が聞こえる。
ゲストランナーの野々村真は速すぎて姿すら見えないのだろう。

25キロからは5キロゆるやかに上って、5キロゆるやかに下る折り返しコースが始まる。
なので、全体的にランナー密度が高くなって、走りにくくはなるが活気はある。
と、対抗レーンから「宗平くーん」というひときわ大きい叫び声が聞こえてくる。
やはり、てらやんの声は迫力がある。
長井さん&てらやんペアは、10キロほど前を行ってるのだから、やはり速い!

さて、28キロのあたりで、ついに腰のあたりに違和感が出始めた。
福知山や神戸のときにはハーフを超えてわりとすぐに痛みが出始めたので、多少は遅らせることはできただろうか。
ただ、これまでは足首やふくらはぎから痛みが出ることが多かったのだが、今回はなぜか腰からだ。
スクワットをして少しはトレーニングをしたつもりだが、まぁどこから痛み始めるかはその時々で違うようである。

30キロを超えてなんとかまだ5分50秒のペースで走っている。
エイドで給水して停まると、足の痛みがひどくなるので、エイドをパスした方がいいのかなと思わなくもないのだが、やはりスポーツドリンクはとることにした。
私設エイドがたくさんあって、飴やチョコレートや梅干しなんかもいただきながら走っているのだが、どんどん足が重くなってきて、うーん、「1キロが果てしなく長く感じられる」ゾーンに突入してしまった。
おにぎりのエイドがあったのだが、「いらない」と言ってしまった。
なぜだ!おにぎりのエイドなら真っ先に飛びつくはずなのに。
食をこよなく愛する僕にとって、食欲がないというのは重症だ。
風邪をひいても食欲はいつでも万全なのに。

そして、34.5キロ。ついに今回もやってきてしまった…足がどうにも動かない。
なんでこうなるの…と思いながらも、しばし歩かせてもらうことにした。
うーん、今回も歩いてしまったかぁ!
とぼとぼ歩くこと1キロ以上。
GPSボイスコーチによると、1キロ10分のペースらしい。
隣で歩いてるおっちゃん曰く「もう、はよ終わりたいなぁ」「ほんまにねぇ」なんてなやりとりをして、その場をやり過ごした。
次の給水ポイントまで歩かせてもらうことにした。
エイドを出るときに、後ろから元気な声が。
ヨッシーさんが見つけてくれて、力強いエールをくれた。
そのおかげで、少し元気が出てきたので、再び走り出した。
すると、とんさんが「痛い」と言って停まってしまった。
ふくらはぎがピクピクして走れないのだという。
伴走ボランティアではなくパートナーとして走っているわけだから、伴走者の方に故障が起こって、二人で対処するということもやはり大事なことだろう。
「無理せずに歩きましょう!」と言って、もう少し歩くことにした。
ちょうどとんさんのご友人の方が通りかかられたので、少しだけその方にロープを持ってもらったのだが、とんさんのすごいところは、そのわずかな時間の間に、長年の経験に基づいて足を動かすことによって、とりあえずの復活を果たされたということだ。
かなり痛いということのようであったが、それをどのようにして治されたのかはやはり経験のなせるわざなのだろう。

そして、37キロあたりから最後の5キロを走り出した。
しかしまぁ、痛む足にとっては「1キロが果てしなく長く感じられる」ゾーンは続いていて、GPSボイスコーチが1キロ通過を示す音が待ち遠しくて仕方がなかった。
まだかいな、まだかいな…といった具合に。
「がんばれ!がんばれ!おかえり!」など沿道から様々なる声援を送ってくれて
いるのだが、とてもじゃないけれど、返す気力がない。
ついには横腹まで痛くなってきて、「おい、もう十分頑張ったので、これでよしとしてくれぇ」なんて沿道に叫びたい気分である。
40キロまで来たのに、まだ嬉しさが感じられない。
GPSボイスコーチをスタートラインから計測すればよかったのかもしれないが、そこから数100メートル手前で並んでいたところから開始してしまったため、ボイスコーチが40キロだと告げていても実はまだ40キロには数100メートル達していないのだ。
うーん、ただだましだまし足を動かすだけの苦行が続く。
給水をとる気力もない…というか、エイドで足を停めてしまうともう走れなくなりそうでもあったのだ。
ボイスコーチが42キロと言ったとき、ようやくこの苦行の終わりが見えたように感じた。
ところが、その数100メートルも実に辛く、「はよ終わろ!」と思ったその時、うしろから「宗平、とんさん」という元気な声。
おぉ、ここで登場か、オリーブさんだ。
元気に颯爽と駆け抜けてゴールインされた。
その元気をもらって、我らもなんとかゴールイン!
グロスタイム4時間35分44秒、ネットタイム4時間29分3秒だった。
ネットタイム4時間半はもう厳しいと思っていたので、やったぁである。
前半のいわゆる貯金のおかげだ。
1キロあたり5分50秒がよかったのかどうかわからないが、それほど無理な感じでもなく、自然な感じだったし、逆に1キロ6分15秒で走ってたとしても35キロあたりでやはり足は痛くなっていたかもしれないので、まぁこれで今の自分のベストにはなったのではないかなと思う。
歩かずにゴールという目標は次回になったが、やはり持久力不足は否めない。

学生さんに完走メダルをかけてもらうととにかく嬉しい気持ちと、ほっとやれやれの心地よい疲労感に包まれる。
このメダル、丹波焼きで作られているそうで、ここにも篠山らしさがよく出ているのだ。
さて、ゴールした後のお楽しみにとっておいたのがしし汁だ。
が、やはりみんなこれを楽しみにしているから長蛇の列で30分はかかりそうだ。
しばし休憩と着替えをしに行ってから、再度チャレンジすると、もうすいていてラッキーなタイミング!
うーん、具だくさんの豚汁風で実に美味しい!
完走後だから一層美味しい!
足が痛いとんさんにご無理を言って、黒豆ソフトクリームを食べて、黒豆ひねり餅をお土産に買って、家路についた。
帰ってきたら、文字通りばたんきゅー!
いやぁ、フルマラソン42キロはまだまだ長い旅だ。
ようやく余韻にひたりながら…あぁ、来シーズンは何に出ようかな。
とんさん、辛くも楽しい篠山お世話になりました&ありがとう!

第33回 視覚障がい者京都マラソン大会

2016年2月7日(日曜)に第33回視覚障がい者京都マラソン大会が京都市西京極運動公園及び周辺道路を使用して、行われました。

この大会は、33年前、「視覚障がい者も一般道路を走りたいとの思い」から始まったと聞きました。
30年以上前となると一般の大会自体も今のように数も多くなかったと思います。
まして視覚障がい者が伴走者とともに参加できる大会は、まったくなかったのではないでしょうか?
現在では、伴走者とともに多くの大会へ参加できるようになりました。
そんな視覚障がい者の走る環境が大きく変わったり、大会側の運営面も代わっていくなど大きな変動の中、今年の開催で最後となりました。

今年の大会は小雪も降る中、晴れたり曇ったりと天気もコロコロ変わって、今までの大会もきっといろんな天候だったんだろ~なって、思いをはせます。
第1回から参加されてる方がお二人いてはりました。
種目が1キロ、3キロ、10キロとあるので、体力に応じて参加することができたのではと思いますが、それでもこの寒い時期にある大会で、33回ずっと継続して参加されたのはすごいな~と思います。

この大会は、ボーイスカウトの子どもたちがたくさん応援してくれて、また近隣の皆さんも応援に駆け付けていただいてると聞きました。
今年は参加者含め、スタッフに応援、ボランティア総勢900名の皆さんが携わってくれてはったようです。
最初からこれだけの人数が携わってくれてはったのではないと思うので、33年間継続してくれてはったたまものだと思います。

わーわーずでは、年間行事の一つとして、この大会に参加してきました。
なので、それぞれに思い出のある大会です。
そんなメンバーの思い出をここに残したいと思います。

説明:説明:10キロをトップでゴールしたセッキーさん説明:31回大会開会式で一言を述べるわだっち

●視覚障がい者京都マラソンの思い出
こんにちは。るみちゃん(福原)@ブラインドです。
 
京都マラソンが終わってしまったことは、とても残念です。
わーわーずの行事の一つでしたからです。
 
私は、1989年の第6回大会に初めて参加しました。
1988年にライトハウスに入り、そこで、そのマラソン大会のことを聞き、ランニングもしていたので、参加することにしたのです。
その当時は、5km、3km、1kmの3種目でした。
会場は、京都府立大学のグラウンドでした。
会場に行ってみると、それぞれの種目の人数が少ないことに驚きました。
100人はいなかったように思います。
視覚障がい者がマラソンをすることが、まだそんなに知られていなかったんですね。
ちなみに、5kmの女子全盲の部は4人でした。
もう一人の訓練生とあと二人でした。
さて、伴走者さんは、市の消防局の男性の方で、初めて伴走するということで、とても緊張されていました。
でも、走り出したら、初めてとは思えないぐらいに、的確な伴走をしていただき、優勝してしまいました。
タイムは、27分32秒。
練習タイムより、5分以上の好タイムでした。
伴走者さんは、初めて伴走して、優勝してしまったので、大喜びでした。
実は、優勝したことを知らなくて、係員さんに、
「優勝しましたので、表彰式に出てくださいね」
って言われて、自分でもびっくりして腰を抜かしてしまいましたよ。
「え?優勝したんですか?」
初めての5kmで、しかも優勝してしまったので、涙を流しながら、伴走者さんと抱き合い喜んだことを今でも忘れません。
それ以来、第8回を除き、20回まで、毎年参加していました。
その後は、体調が思わしくなかったので、24回と25回に参加させていただきました。
府立大学のグラウンドの時には、前日に雨が降ったら、水たまりはできるし、コースも西京極の道路と違い、砂利道がコースになっていたので走りにくかったです。
雪が降ったときもあったかな?
風の強い時もあったかな?
雨の中を、走ったこともあり、どろだらけになりながらゴールをしたこともありました。私が優勝したときのトロフィーはね、持ち回りで1年間だけ貸出して持って帰ったんです。
そして、1年後、つまり、1990年の大会の日までに、事務局に送っていたんです。
その代わりに、レプリカをもらいました。
何回目からには、トロフィーをそのままもらえるようになりましたね。
グラウンドのときには、中といえばテントしかなかったので、寒いのなんのって。
終わった後のうどんが暖かくておいしかったです。
その間にも、優勝はできませんでしたが、入賞は何度もさせていただきました。
何回目からか忘れましたが、現在までの、10km、3km、1kmに変更され、京都府立大学のグラウンドから、西京極陸上競技場になったんです。
20回大会までに変わったので、全部の距離を走りました。
西京極に変わってからは、寒さも雨も、屋根のあるところで助かりました。
府立大学のグラウンドにしても、西京極に変わっても、応援の人は、沢山でした。
いろんな方に伴走してもらうことができて、本当にありがとうございました。
この、京都マラソンがきっかけになり、フルマラソンを走りたいと思うようになりました。
この京都マラソンに出会ってなかったら、フルマラソンを目指そうと思ってなかったでしょう。
そして、視覚障がいを持っていても、走ることができるのだと、知ることがなかったでしょう。
そう思うと、この大会は、私のマラソン人生の1歩を踏み出させていただきました。
本当に、最後に走れなくて残念でした。
大会を支えてくださった方がおられましたら、お礼を申しあげます。
そして、お疲れさまと言いたい気持ちでいっぱいです。
「ありがとう京都マラソン大会」
「マラソンの楽しさを知ることができて、本当にありがとうございました」
って、感謝でいっぱいです。

説明:31回大会の開会式の様子

●第33回 視覚障がい者 京都マラソン大会の思い出
ガイドの神藤ヨッシー
 
僕にとっては大袈裟ですけど人生の中でもすごく印象に残った1日だったので投稿します。
 
僕は50歳でマラソンを始めて現在マラソン4シーズン目に入ります。わーわーずに参加させていただいて2年ぐらい。
そんなに回数は多く行けてませんけど、長居の練習会やマラニックなどで凄く楽しいマラソンと出会う事が出来ました。
 
今回の第33回視覚障がい者京都マラソン大会が大会での初伴走でした。
 
去年の10月ぐらいでしたか、ブラインドランナーの西條さんからの突然の伴走の依頼。
初めはビックリしましたが、大会での伴走未経験の僕にこんな依頼をしていただいたことに感謝する気持ちが強く、そのお気持ちにお応えしたく即承諾のお返事をさせていただきました。
 
10キロという事で走る方は西條さんの希望のタイムだと自信があるのですが、いかんせん大会初伴走。多少の不安もありました。
 
転倒してしまったらどうしよう。途中で僕がトイレに行きたくなったらどうしよう。
 
でも、わーわーずのメンバーはみんな大会で楽しそうに走ってる事を想うとワクワク感の方が大きかったです。
 
そしてついに大会当日。
いざスタートすると、コースにカーブが多かったり、小さい段差があったりで、不安要素なんか考えてる余裕もなくコース状況とタイムを伝える事で必死でした。
 
西條さんの目標は1時間を切ることだったので、僕も同じ気持ちになりました。
西條さんは、腕を大きく強く振るタイプのランナーさんなので、出来るだけそれに合わせようとしたのですが、果たして出来たかどうか?
 
僕より9歳年上のベテランランナーの西條さんの息遣いがやっぱりいつもの練習の時とは違うように聞こえました。
 
この西條さんの頑張りで、こっちまで熱くなってきたのを覚えています。
 
結局、目標タイムにはわずかに及びませんでしたが無事にゴール出来て本当に嬉しかったです。
 
そしてサンビームでの打ち上げの時に、この大会が今回で終わってしまうという事で、ブラインドランナーさん達のこの大会への想いを聞いた時に、本当に残念だなという気持ちと、最後にこの大会に参加できて良かったって気持ちが僕にはありました。
 
ブラインドランナーさん達にとって、この大会の存在がどれほど重要な事だったのか、お話しを聞いていてよくわかりました。
 
後日、西條さんにお礼を言っていただき、僕の伴走に及第点もいただき、本当に自信になりました。
 
そして、打ち上げの時も言ったのですが、いつかまたハーフやフルの大会でも伴走してみたいと思うようにもなりました。
 
わーわーずに参加させていただいた当初は、大会で伴走なんか僕にはとんでもない話だとは思っていましたが、こんな前向きな気持ちにさせていただいたのも、わーわーずの存在のおかげだなと感じています。
 
またいつか違う形でこの様な視覚障害者の大会が行われる事を願います。
 
ありがとうございました。

説明:トラックを周回中のジョーさんペア

●視覚障がい者京都マラソンの思い出
サケもっと@ブラインド
 
私は、1994年3月、この大会に初めて参加しました。
京都ライトハウスで生活訓練を受けていて、その時の訓練生数名と先生と何度か練習して参加しました。
記憶に残ってることは、伴走ロープも知りませんでしたので、タオルの両端を持って走っていました。
力がつい抜けたり、急に引っ張られると滑ってタオルを離してしまうので、タオルの両端を玉結びのようにして、滑らないようにしました。
長さも適当にしていたと思います。
今のロープの方がめっちゃ走りやすいです~。
その頃は、わーわーずもまだ結成されていませんでしたし、走り続けてゆくとは思ってもいませんでした。
 
それからわーわーずと出会って、2002年くらいからはずっと参加しています。
いつもの練習コースの長居公園の平坦なところと違って、西京極の運動公園はアップダウンがいっぱいあって、そこを周回するので、何度も坂道がやってきます。
10キロでこれだけあるときついな~と思いながら参加してました。
でも、そのきつい坂道や周回コースの沿道で多くの応援があるのです。
伴走者の声も聞こえないくらいのおっきな声で、名前を呼んで応援してくれるのです。
そんな応援に元気をもらって、ゴールするとほんと充実感いっぱいでした。
そして、この大会は、タイムに応じた伴走者とペアリングしてもらえるので、ブラインドが単独で申込みができる大会でもありました。
 
私は京都ライトハウスでお世話になっていましたので、年に1度懐かしい声に出会えることもうれしかったです。
わーわーずからの大会参加者も増えてゆくと大会終了後の打ち上げもどんどん多くなっていって、めちゃ賑やかで、やかましいくらいのわーわーずらしい楽しい打ち上げでした。
 
そんな年に1度の楽しい大会や行事がもう終ってしまって、来年はないんだなと思うと寂しいですが、来年以降どんな形で行われてゆくのか楽しみにしています。

説明:トラックを周回中のサケもっとさんペア

●視覚障がい者京都マラソンの思い出
針小路@ブラインド
 
この大会が私のマラソンライフの歴史でもあります。
今となっては、大変珍しい大会で視覚障害者しか出場出来ない大会でした。
私は、平成元年に手帳を、取得したので第1回からは、出場資格が有りませんでした。(わらい)
 
1990年3月にマラソン大会と名の付くものに一番最初に走ったのがこの大会で3kmでした。
なのに今では、この記録がPBなのです。(わらい)
 
明くる年からは、一番長い5kmのエントリーでいつの大会かは忘れましたが、息子が中学生の時に伴走者として一緒に走りました。
その時に特別賞で親子なんとか?賞を、いただいたのがこの大会での最初の終わりメダル獲得です。
その息子も今や二人の子持ちのお父さんです。
この自分は5キロを、20分切り目指しておりましたが5キロが無くなり切れずじまいで終わってしまいました。
種目が5kmが10kmに変更になりそのうちに会場も全国駅伝のメッカ西京極に移りました。
 
20回大会を、もって運営から資金まで支えて頂いていたライオンズクラブが、退かれ継続が危ぶまれていた時に視覚障害のある社長の会社からスポンサーの申し出があり継続できましたがこのようにまたどこかが申し出てくれるかな?
 
この大会のお陰で走る習慣も付いて遷都1200年を、記念して京都シティハーフマラソンも10回以上連続完走しておりました。
 
その当時は3月の第1週にこの大会があり第2週が京都シティハーフで1時間ほどアップし50分そこそこならばキロ5分ペースと占っておりました。
 
それが最終では関門も気になるタイムまで落ちました。(わらい)
 
最初は、わーわーずの参加者も少なかったのですが練習会のミーティングで宣伝すればボチボチ増えて大会の参加者全員の1割以上2割近くがわーわーずになっていたときもありましたね。
 
終わってからの打ち上げも回るお寿司屋さんとか駅前のお好みやさん、ランナー御用達の王将等々転々としていて神奈川から大勢来られたときはアクアアリーナのレストランも行きました。
そうこうしているうちにごく近所に喫茶店がありそこがわーわーずの恒例の場となり、最初は12人がけの大テーブルも埋まらなかったのが店の半分以上も使ったこともありました。
 
あれこれといろいろな思いでありますがほんと初心者には感動する大会で是非これに代わる大会が欲しいものです。

説明:トラックを周回中の針小路さんペア

「第23回泉州国際市民マラソン」いもちゃんの完走記です

夢の泉州国際市民マラソン完走記

みなさん、こんにちは。
ブラインドの、いもちゃんです。
2月21日、泉州国際市民マラソンのフルに参加してきました。
この泉州マラソンは、私の夢でした。いつか、走りたいとずっと思ってきました。泉州で育った私。思い出がいっぱいの泉州。出場できるとわかった時は、すごく嬉しかったです。
制限時間が5時間というのが一番の問題でした。今までにフルマラソンは、2回経験していますが、完走したものの5時間30分が私の記録でした。それも、走り出して1年目より2年目のほうが調子悪くて、どの距離を走っても自己ベストが出ないんです。大会が近づくにつれて、不安とあせりしかありませんでした。日曜日の練習会では、わーわーずのたくさんの方からアドバイスをもらいました。泉州の伴走をしていただいたMさんと、12月、1月に、30キロ走をしていただきました。タイムは、あまり良いとは言えないタイム。30キロで足が棒に。不安をかかえながら大会に挑むことになりました。走れるとこまでがんばろう。
大会当日は、体調もまずまずで 天気も良くて いい感じ。Gブロック最後尾からのスタート。楽しもう。
伴走者のMさんに、この辺にこんなお店ないですか? そこをずっと入って行ったら私が通っていた小学校があるんですよーなど話をしながら前半は、順調でした。岸和田辺りでは、私の大好きなだんじりが応援をしてくれました。太鼓の音を聴いていると そのあいだだけ疲れを忘れることができました。りんくうタウンに着く頃には、だいぶタイムが落ちていました。でも、伴走のMさんがそれぞれの関門の時間を調べてくださっていました。キロ7分を越えそうなペースになると、がんばろう。絶対にゴールできるから。いけるで、いけるでと、ずっと励ましてくださいました。
問題のブリッジ。ハア ハアという声がますます大きくなっていく。頭の中は、ゴールのことだけしか考えることができませんでした。Mさんからの声かけにも、返事ができないぐらいになっていました。ブリッジを折り返してあと少し。足が痛い。ここまできたら 絶対にゴールしたい。そんな気持ちで走りました。
ここまで走ってくるあいだで 沿道からたくさんの方の声援、わーわーずの仲間からの応援、伴走のMさんからの励ましで、諦めることなく最後まで走ることができました。Mさんも私も感激で涙してました。
4時間57分。嬉しかったです。みなさんのおかげで 夢を叶えることができました。本当に ありがとうございました。

「福知山マラソン(第15回全日本盲人マラソン選手権)」 田中まさるさんの完走記です

午前3時30分起床、シャワーして、ご飯を食べ、二日前にスポーツ店に駆け込んで買い求めた足と骨盤をサポートしてくれるマラソン用のタイツを身に着けた。あれは10月中旬のことだった。練習会で25キロを過ぎたあたりから急に右膝が痛み出し、走れなくなり、けっきょくそこから10キロの道のりを歩くことになったことがあった。それから長い距離は走らずにいたこともあって、膝の痛みを感じることはなかったけれど、本番は大丈夫だろうか?っていう不安はずっとあった。だから、かなり高額ではあったが、このタイツを手にいれずにはいられなかったのだ。ところで、これをはくのにはちょっとしたコツがいる。きっちり足首から膝関節、股関節、骨盤までをサポートするためのものだから、弾力性も大きいので、足先から少しずつたぐり上げるようにしなきゃならず、しっかりと筋肉の走行にも合わせなきゃならない。しかし、前日にも練習しつつ試しに部屋ではいてもいたので、それほど時間はかからず、うまく身に付けられた。あー、やれやれだ。 まだ真っ暗な中、いよいよ出発。大阪駅のホームで伴走してくれるTさんと待ち合わせた。僕が始発電車に乗って大阪駅に到着したのは5時半、彼はもっと早くに到着していて、福知山行きの列車を待つ人たちの列にならんでくれていたのだ。5時50分発の福知山行き列車は福知山マラソンに出場するランナーたちでいっぱいだ。ならんでもらっていなければ福知山まで2時間40分くらい立ちっぱなしってことになっていたかもしれなかった、Tさんのおかげで無事席を確保し、ようやくほっと一息ついたのだ。長い1日の始まり、フルマラソンはすでに始まっているんだなあと感じた。
昔っから陸上競技が好きだったので、一度はフルマラソンを完走してみたいと思っていた。わーわーずっていうマラソン練習の団体にもずいぶん長く所属しているにもかかわらず、なかなかフルへの挑戦となると腰がひけてもいた。ともあれ、2年前に、このわーわーずの15周年の記念の曲を作ったことが、そんな僕の背中をおしてくれたのだ。せっかく歌作ったんだから、この流れにのってフルに挑戦してみたいなと思った。そんな気持ちを受け取ってくれたのがTさん、それはちょうど1年ほど前のこと。それからすぐに練習を始めたかといえばそうでもなく、CDのことやら仕事のことやら体調やら・・・、本格的には5月くらいからだったか・・・、そんなこんなで、福知山マラソン当日をむかえたのだ。
無事福知山駅に到着、会場までのバスに乗るため少し歩いた。やや寒い、僕は長そでのシャツは持ってきていないと言った。「えっ?このあいだ打ち合わせしておいたのに、持ってきてないとは・・・」とTさん。シャツ1枚のことだから、そんなに荷物になるわけじゃないし、持って来ておけば寒さにも対応できたのだ。やれやれ、タイツのことを気にしすぎたのか、すっかり頭から飛んでいた。っていうか、もう少ししっかり準備しなければね。そういえば手袋さえも忘れてきてしまっているのだった。こうなったら、走る時、それほど寒さがきびしくないよう祈るばかりだ。
バスの席に座ってぼんやりしていると、後ろの席のランナーたちの声が自然と聞こえてきた。彼らは外科医のようで、久々の再会らしかった。海外で行われた学会に参加した時のことやら、大変だった心臓の手術のことやら、別世界の話しが展開していた、それにマラソン大会にも多々参加しているようだった。元気でタフな人たちだなあ、やはりフルを走ろうって人たちはすごいなあって思いつつ、今日が終わる頃には僕はいったいどうなってるんだろうか、フルマラソンランナーの仲間入りがかなっていればいいなあって思った。
会場はまるでお祭りさわぎだった。ものすごい数のランナーたち、早く受付をすませてくださいっていうアナウンスがずーっと聞こえていた。42.195キロを走るっていうのはそんなにも楽しいことなんだろうか・・・、どうしてこれだけの人たちがわざわざここまでやってきて、フルマラソンっていう難関に挑戦しようとするんだろうか・・・、この場におよんでも、まだ自分にもよく分からないのだった。
スタート地点の近くに、視覚障害者用の準備場所が用意されていた。僕らはそこで走る準備をした。ゼッケンを付け、靴をはき、ストレッチした。視覚障害者の仲間たちとも再会、何だか心強い。トイレには何度か行った。朝おにぎりをふたつほど食べただけなんだが、腹は数回痛くなり、もうそろそろスタート地点に移動するっていう直前まで、僕はトイレの中でとじこもり、自分のおなかと会話していたのだ。まったく大事な時に・・・、便意っていうのはやっかいだ。こんなことが真に迫って気になるのもマラソンならではだろう。ともあれ、何とかおり合いをつけ、どたばたと、Tさんにしっかりガイドしてもらいながらスタート地点にたどりついたのだ。
「田中さん、大丈夫やからね!」ってベテランのブラインド・ランナーさんが声をかけてくれた。一般のランナーたちは予測タイムに応じて、並ぶ位置が決まっている。当然タイムの速いランナーは前の方に並べるし、タイムが遅いランナーはずいぶんと後ろに並ぶのだ。けれど、この大会では視覚障害者ランナーである僕らはスタートラインに最も近い位置に並ぶことができた。すごい!それにしても、あー、やっとここまで来たのだ、福知山、Tさんにも練習から何からずいぶんお世話になっている、膝は痛み出さないだろうか、走り切れるだろうか・・・、不安はつきない。いったいどうなるやら。けれどそれより大きな興奮が高まる。こんな時の僕は根っからのおちょうしものなのだ。どきどきする~!何とかなる~!これから始まる冒険に心震えるばかり~!Tさんと握手、いよいよ始まり、みんなでカウントダウン、そしてスタート!
曇り空、しかし雨は降っていない。思ったよりも暖かい空気、半そでシャツ、手袋も無しの僕だが、この天候は幸運だ。まったく僕はついている!そして、みんなやたらと速いのだ。そりゃそうだ、この位置に並んでいる人っていえば、むちゃくちゃ速いランナーさんたちなんだから。信じられないスピードで走っていく。それに、後ろから僕らを抜いていくランナーさんたちもやたらと速いのだ。そりゃそうだ、2時間台や3時間台で走ろうって人たちばかりなんだからね。僕からすればみんな怪物だ。なにしろ僕の目標タイムは、精一杯速く見積もっても4時間30分なのだ。ともかく自分のペースを守らなければ。いくらおちょうしものとはいっても、このペースにつられて走ってしまったら、つぶれてしまうのは目に見えている。ゆっくりゆっくりと走る。
Tさんの伴走のスキルはこの時点ですごかった。後ろから抜いていくランナーたちのじゃまになたないようにしながら、スタート直後のいくつかの曲がり角をアウトコースからしっかり曲り、人波の中を安全に走ることができた。僕を抜こうとして転倒するランナーがいた。スタートして数分なのに、仮設トイレに向かうランナーもいた。僕らはほんとうにたくさんのランナーにかわされながら、ようやく落ち着いて走れるようになっていったのだ。福知山の空気はとても新鮮だ!緑のにおいで気持ち良し!こんなに遠くまて来たかいもあるってもんだ。この時間をまるごとぜんぶ味わおう!
Tさんとは夏あたりから週に一度くらいのペースで長居公園で練習した。彼はフルはもちろん、100キロマラソンも何度も完走したことのあるランナーだ。
僕の力を考えながら、無理のない範囲で練習してくれた。いろんな話をしながら毎回少しずつ距離を伸ばしていった。お互いの仕事やら、これからの夢やら、音楽の話やら・・・。そういえばTさんが40歳代になって本気で走り始めたのは村上晴樹さんの「走ることについて語る時に僕が語ること」っていう本がきっかけだったと聞いて、僕もその本を読んでみたりした。走ることは僕にとっても昔っから大切なことだから、すごく共感できた。今回の目標は何といっても完走だ。また次も走ろうって思えるような完走なのだ。Tさんはたくさんのブラインド・ランナーの伴走者としてレースに出場している。一人で走るマラソンもよいけれど、二人でゴールして喜びを分かち合えるのがうれしいと話してくれた。そして、完走できたら、ぜひその経験を歌にしてほしいと彼は言った。練習の後はほぼ必ずビール飲みながら夜ご飯、ともかくランナーっていうのは元気な人たちなんだなあって思った。ところで、走ることが生活の一部になると、ただでさえ大好きなビールが、めったやたらとうまいのだ。練習後の風呂屋っていうのも何とも心地よいのだ。体もずいぶん変化した。少しずつ引き締まってくるのだ。特に大臀筋辺り。ともあれ、ちょっと霧がかかったような福知山の道を快調に走った。曇り空に時々太陽がのぞく。雨はやっぱり降っていない。タイツのはき心地も上々だ、これならいけるかも!
1キロ6分10~20秒くらいを刻みながら心地よく走り続けた。これなら目標の4時間30分も夢ではない。いっしょに走るランナーたちの足音が360度周囲から聞こえてくる。良い音だ、みんな修行僧みたいに自分と向き合いながら、遠いゴールを目指しているのだ。時々、僕のゼッケン番号を呼んでくれるランナーさんがいた。僕がブラインド・ランナーと気づいて応援してくれているのだ。「ファイト!」って僕も声を返す。5キロごとにあるエイド地点、水をしっかり補給しながら、10キロを過ぎ、15キロを過ぎ、20キロを過ぎていった。道端では応援してくださる人たちがいたり、バンドの演奏があったり。個人的にエイドの準備をしている人たちもいたなあ。この道をまた帰ってくる頃には僕はどうなっているのかなあ、元気にまた帰ってきたいなあ、おいしいものを食べさせてくれるんだろうか、楽しみだなあなんて、今思えば、ほんとうに呑気に走っていたのだ。
ゆるやかなアップダウンがあったけど、心臓も肺も足も自然にそれを受け入れてくれた。木々の中を走るのも心地よい。25キロを過ぎても調子はかなり良い。わーわーずのメンバーさんや知り合いのランナーさんたちの声に励まされながら、まるで大人の遠足みたいな気分だったな。この時期からすれば気温はかなり高いようで、暑さにばて気味のランナーもいるようだった。半そでシャツで調度良し!そして、折り返しポイントの28キロ地点に到着したのだ。大きなコーンにタッチして、いよいよこれから帰り道、ゴールまで残り約14キロ、そこから長い長い道程が待っていたのだ。
折り返してからすぐにエイドがあって、お汁粉をいただいた。甘さがたまらなくありがたくて、ここからも頑張れるって思った。のも束の間・・・。
30キロを目前にしてすっかりペースダウンしてしまった。突然のこと、両足を激しいだるさが襲ったのだ。あんなに軽々と走れていたのが嘘のようだ。まるで両足が大きな大きな重りみたいだ。前に踏み出す旅にその重だるさと闘わなくちゃいけない。
そういえば、このレースに向けての練習で走った最長距離は28キロ程度なのだ。神戸でのマラニックに参加した時のことだ。神戸から明石大橋の間の道をみんなで走った。9月末っていうのにむちゃくちゃ暑かったな、コンビニに寄って、その度にガリガリくんを買って食べた、これがまたうまかった。
Tさんとの練習での最長距離は35キロになる予定だったが。第2京阪道路にそっての道、福知山のアップダウンのある道を想定しつつ、ここで35キロいければ大丈夫っていう予定であった。10月中旬のことだ。その時は25キロ辺りで右膝が痛み出し、走ることができなくなってしまい、Tさんと二人、10キロ程度歩くことになってしまった。みんなはすっかりゴールして、僕らはずいぶん遅れてしまった。途中で電車があれば乗ることもできたのだが、近くには駅もなく、いっしょに歩いてもらうほかなかったのだ。Tさんには迷惑かけちゃったなあ、申し訳ないなあと感じながら、それでもお互いに家族の話などしながら、僕はその時いちばん気にかかっていた父のことを話してたと思う、ともかく、長い長い道を最後まで歩いたのだ。みんなとの打ち上げには間に合わず、たった二人で王将で打ち上げした。Tさんにはほんとうに感謝した。そんなこんなで、いよいよ未知の距離に入って、体はそれに反発しているのかもしれない。やれやれ、すっかりブルーな気持ちと体を引きずりながら30キロを通過した。
マラソンは30キロからが勝負、本当のマラソンは30キロからだといわれている。それをいやというほど実感しながら走った。両足の重さは腰辺りまで広がり、やがて重さが苦痛に変わっていった。
ふと、Tさんが口癖のように言ってた言葉が僕の頭に浮かんできた。「マラソンは走って完走してこそマラソンだ」。確かにそうなんだけど、それはそうなんだけど、この苦しさは耐えがたく・・・、ついに歩くこととなった。折り返し前とはすっかり世界が変わってしまった。楽しさはどこへやら、苦しさだけがここにあるのだ。「走り続けていれば、それを超えられるよ、楽になるよ」ってTさんはこれまでの経験から出てくる言葉をくれた。でも、苦しみにどっぷりつかっている僕の気持ちはその言葉を受け入れなかった。これはきつすぎる、あと10キロ以上もある。無理かもしれない・・・。でも、ここであきらめるわけにはいかない、絶対にあきらめたくない理由が僕にはあった。
実はこの福知山マラソンは僕にとっては2度目のフルマラソンへの挑戦だったからだ。9年ほど前だったか、宮崎県で行われた青島太平洋マラソンに参加したことがあった。これが僕の初フルマラソン体験だった。レース前日に同僚のブラインド・ランナーと飛行機で宮崎に乗り込んだ。調子よくビールを飲み、ところが夜どうしても寝付けなくて・・・。当日は33キロまで何とか走ったものの、全身の疲労感に耐え切れず、ついにリタイアしたのだ。33キロの制限時間には十分間に合っていたのだが、あまりの疲労感に心まで折られてしまった。ゆっくり海を見ていたい、それが正直な気持ちだったっけ。バスに乗りゴール地点まで運んでもらった。その時はしかたないって思ってた。同僚は5時間20分くらいで完走した。ゴールした人たちを見ていると、どうにもくやしくなってきた。レースのあとで食べた宮崎鳥も、完走していたらもっとおいしかったかもしれなかった。ともかく、どうしても33キロは絶対に超えたい。まずは33キロまで行こう。そんな気持ちで何とか走りだした。
そして、何とか33キロを超えた。やっとここまで来たんだな、まったく青島太平洋マラソンから何年かかったんだろうか・・・、とはいえ、このフルマラソンから解放されるまでにはまだまだ苦しまなくちゃいけないのだ。幸いにも右膝のどうにもならない痛みは出ていない。自分の体とは思えないくらいに足腰が重くて痛いだけだ。ここからは歩いたり、走ったり、また歩いたり・・・。4時間30分での完走は難しくなってきた。いやそれどころか、5時間を超えてしまうかもしれない。
Tさんにはひとつの考えがあった。ゴールまでの道、最後の2キロくらいは上り坂だ。5時間を超えてしまうと、交通規制が解かれてしまい、道の真ん中を走ることができなくなるのだ。車が走る道端を走らなきゃいけなくなる。Tさんは僕の初フルマラソン完走を、しっかり最後の坂道のど真ん中を走ることで終えたいって考えてくれていたのだ。
その気持ちはとてもありがたかった。しかし、体の方はいうことをきかない。何とか心をつないでゆっくりゆっくりと走る。Tさんはたまりかねてペースをあげる。ロープが引っ張られる。けれど、僕はそのペースにはついていけないのだ。確かに5時間以内でゴールしたい、けれど、引っ張られながら走ることは、さらに僕の気持ちをつらくするのだ。自分の意思で走っていると思えなくなる、走らされている感覚になってしまうからだ。そして、走り続ける限り、ブラインドの僕はそのロープを手放すことはできないのだ。たまらずに、「ひっぱらないでください」とTさんに伝える。Tさんはペースを落とし、僕らはまた歩いたり、走ったりを繰り返しながら進んだ。
35キロ、36キロと進んでいく。暖かな日でほんとうによかった。こんなにゆっくり進んでいたら、体はすっかり冷え切ってしまう。寒い日だったらって想像したら、ぞっとしたのだ。エイド地点にはスタッフの人たちがいて応援してくれるのだが、ここで元気出さなきゃって思うのだけど、やっぱりペースは上がらない。外からの働きかけにはどうしても気持ちは反応してくれなかった。
そんな時に僕の心をよぎったのは、いつも僕の周りにいてくれる人たちのことだった。フルマラソンを走るってことで、自分を支えてくれた人がいる。マッサージをしてくれた人もいる。いっしょに練習した人たち、特に右膝を悪くしてから、ランニングフォームについてアドバイスしてくれたランナーさんもいた。たまたま京都の練習会に参加した時のことだった、あれから自分なりにも工夫して、膝への負担を減らせるように股関節で体を支えながら走るフォームを意識できた。肩甲骨を前後にしっかり動かしながら、それによって腹筋を使ってのひねり運動が生まれ、股関節から自然に足が前に出るようになる。本当にそれができているかどうかは分からないけれど、全身を使って走っている実感が持てるようになったのだ。膝の痛みが出てから後の練習のほうが、実際には充実した時間だったかもしれないなあと感じさえする。ライブでもフルを走ることはみんなに話してきた、僕の音楽を応援してくれている人たちの顔がうかんでくる。学校でも、フルを走ることはネタにしてきた、学生さんたちの声が聞こえてくる。やれやれ、リタイアしたなんて到底言えないだろうなあ・・・。ちょっとした意地みたいな感情もこの場合には大きな支えになるらしい。フルマラソン完走、自分一人では成しえない、僕はとても弱い存在なんだな、いっぱいの人たちに支えてもらっているんだなあと実感したのだ。
そういえば、とある方のアドバイスで、痛みそうな場所にはパイオネックスっていう小さな鍼を張り付けていた。膝がとことん痛まないのはそのおかげかもしれない。これまた幸運だ。全身の疲れを取ることができるっていう合谷っていう経穴にも貼り付けている。手の裏側、親指と人差し指の間だ。それをぐーっと押しながら、こんな時はもう神頼みっていう心境で、ゆっくりと先を目指した。
苦しい気持ちばかりに捉われていてはいけない、気持ちを切り替えなければ・・・。そんな時、道端から大きな応援の声が聞こえた。わーわーずのメンバーさんたちだ!その声が背中を押してくれた。そこから数キロは良い感じで走ることができた。あー、涙が出そう、ほんとにきつい。でもゴールは確実に近づいてきた。そして、またもや歩く、そしてまた走る・・・。
40キロをいよいよ超えた。あと2キロ、ここからが最後の坂道だ。ようやくここまでやって来た、しかし、感動なんてまだまだ感じられなかった。途方もなく長い坂道なんだろうと思えた。この時点で、交通規制はまだ解除されていないようだった。最後まで今日は幸運だ。僕はかなりついている!そして、この福知山マラソンのひとつの名物になっている企画があった。地元の小学生さんがゴールまで坂道をいっしょに走ってくれるのだ。僕といっしょに走ってくれたのは5年生だったかな?の女の子だった。さすがにここまで走ってきたあとの坂道はハードで、やはり歩いたり走ったり・・・。もう力は残っていない。「最後は走ってゴールしましょう!」とTさん、そうだなあ、そうでなければフルマラソンを完走したっていえないなあ・・・。
そんな時、ゴール地点から音楽が聞こえてきた。ブルース・スプリング・スティーンのボーン・トゥー・ラン!パワフルでしわがれたボーカルだ!うわあ、いいなあ!帰ってきたんだなあ!ゴールはもうすぐそこなんだなあ!いきなりに気持ちが動きだした!恐るべし、音楽の力!最後の400メートルくらいを僕とTさん、そして小学5年生の女の子でしっかり走ることができた。分けの分からない涙が出てきた。胸が熱くなり、体中にその熱が伝わって、ふわっと宙に浮いているみたいだ。きたきたきた、ぐーっときた!ここまで帰って来れたこと、ゴールできること、ようやく苦しさから解放されること、たくさんの人たちに支えられている実感・・・、いろんな想いが混ぜこぜになっている。3人でしっかり両手を挙げて、ゴール!あー、ありがたや~!
ゴールしたら世界が変わりますよ、自分自身が生まれ変わったような気持ちになりますよ、フル出場の前にそんなことを言ってた人がいたけれど、到底そんな気持ちにはなれなかった。控え室まで歩く時、服を着替える時、電車に乗り込んで帰る時、いやあほんとに体はむちゃくちゃきつかったですね。確かに宮崎で叶わなかった夢が叶ったわけだし、今までできなかったことを成し遂げられたわけで、それはとてもうれしいのだけれど、さてこれをもう一度やりたいかって訊かれたら、分からないっていうのがあの時の正直な気持ちだと思う。それほどに疲れ果てたのだ。ゴール手前でぐっときたあの感覚、それはとても喜ばしいものだったし、そうそう味わうことのできない感動なんだと思う。けれど、その気持ちを味わうために、あれだけの苦しみを受け入れなきゃいけないなんて、フルマラソンをやる人たちはやっぱり普通じゃないなあ、タフなんだなあって感じた。
ともかく、帰りの電車でTさんとビールで乾杯、といきたかったのだが、ビールを駅で手にいれることができず、大阪まで帰って来てから、いつもの店で乾杯したのだ。今日が無事に終えられたことにほっとしつつ、Tさんには、何から何までお世話になりっぱなしで、本当に心から感謝したのだ。気持ちに余裕を持てないままだったけれど、Tさんのおかげでフルマラソンの1日を満喫できたのだ。翌日は仕事、授業2コマにあん摩を2本、さらにその後は高槻に移動してテリー島津くんのライブに参加することになっていたから、打ち上げは軽めにおさえ、これまたいつものお風呂屋で体をいやした。ちなみにゴールタイムは5時間06分42秒だった。
じんわりと喜びを味わえるようになったのは翌日からのことだ。学校に何とか行き、筋肉痛に耐えながら、フルマラソンを完走できたと学生さんたちに報告、みんな喜んでくれた時、とりあえずゴールまで辿り着けたことをうれしく、そして誇らしく思った。と同時に、途中で歩いてしまったことや、ともすれば紙一重であきらめてしまったかもしれない自分の弱さも真に迫って感じられるようになった。けして一人ではできなかった、人は何て弱い存在なんだろうか、そして、僕の中にたくさんの人たちが存在していてくれることこそが、僕の人生のひとつずつを支えてくれているんだなあってはっきり感じられるようにもなった。
それからすっかり走ることから遠ざかった。仕事して、歌って、飲んで食べて、1か月くらいが過ぎた頃、また新たな気持ちが生まれていた。フルマラソンについて想い返す時、あれほど苦しかった感覚がすっかり消えてしまっているのだ。その代わりに、うれしかったことばかりが頭に次々と浮かんでくる。とても不思議なのだけれど、練習のひとつずつや、レース当日の経験のすべてが輝いていて、時間の経過とともにそれはさらに輝きを増していく。確かにあの時、いろんなことを心と体で感じながら、僕は生きていたんだなあって思える。そして、証拠にもなく、またフルマラソンを走ってみたいなあという気持ちがむくむくと立ち上がってきたのだ。
今はまた少しずつ体を動かしている。体調はあまりよくないのだが、だからなおさら、フルマラソンを完走できたことはまるで夢の中での話みたいに思える。とはいえ、あの苦しさを僕は体で知っているわけだから、今度フルに挑戦した時には、その苦しさをもっと良いかたちで乗り越えることができるんじゃないかなあって思うのだ。人間はこりない動物だ。来シーズンは3つくらい、フルマラソンを走ってみるっていうのはどうだろうか・・・。
最後に、あらためてTさんに心より感謝します!いっしょに福知山を走れたこと、かけがえのない経験に感謝です!

そして、こんな詞ができました~!

長い長い道の途中
頭も体も痺れてる
折れそうな足を引きずって
旅の終わりをめざす

苦しくて苦しくて苦しくて
苦しくて苦しくて苦しくて
苦しみたちの向こうには
もっと大きな喜びが待ってる

がんばれって君の声
大丈夫だよって友の顔
懸命に想いをつないで
夢の場所にたどり着いた

うれしくてうれしくてうれしくて
うれしくてうれしくてうれしくて
うれしさたちが結ばれて
新しい夢が今生まれた

苦しさのすべて
もうどこへやら
うれしさを抱いて
旅を始めよう

うれしくてうれしくてうれしくて
うれしくてうれしくてうれしくて
うれしさたちが結ばれて
新しい夢が今生まれた